アメリカで築き上げたヒールレスラーとしての看板を引っ提げて、1981年に凱旋帰国を果たしたキラー・カーン。大型外国人選手と比べても遜色ないその体躯はファンの目にも頼もしく映ったものだが、このときはヒール役ではなく日本陣営の助っ人的立場の参戦。あくまでも主役の猪木を支える脇役であり、奇異な弁髪スタイルばかりが注目されるような状況だった。
 だが、その直後の渡米でカーンは『アンドレ・ザ・ジャイアント足折り事件』で一躍名を上げることになる(実際はアンドレが自らの過失で足を故障したのをカーンがニードロップで攻めた結果と見えるようにフォローしたものだった)。

 そうして“アンドレの足を折った男”との触れ込みで勇躍参戦した'82年のMSGシリーズ。カーンは膝の故障を理由に棄権した猪木の代役として決勝のリングに上がる。相手は“遺恨の相手”アンドレだ。
 「このときの猪木の欠場は、本当は故障ではなく糖尿病の悪化が原因だったともいわれていて、確かにこの年に初めて猪木は糖尿病の診断を受けています。ただ、それもありながら一方で、あえて欠場することでカーンを売り出そうという意図もあったのでは」(プロレスライター)

 そうして迎えた決勝のリング。セコンドにはタッグパートナーのタイガー戸口だけでなく、若手のころからの親友でもある藤波辰爾も付き、檄を飛ばした。
 そんな期待に応えるように、カーンは真っ向からアンドレと渡り合う。アンドレの脚に狙いを付けて攻め立てると、場内は一斉の「オザワコール」に包まれた。
 最後はアンドレのデッドリー・ドライブ→フロント・ネック・チャンスリー・ドロップ→ヒップ・ドロップというフルコースの前に敗れたが、そもそもアンドレにそれだけ技を出させるのが異例のこと。“敗れてなお強し”の印象をしっかりとファンに刻み付けることになった。

 それでいて、以後、日本におけるカーンのポジションは徐々に尻すぼみとなっていく。
 長州力率いる維新軍への加入は、その一つの原因と言えるだろう。
 「カーンとしては、アメリカでも世話になっているマサ斎藤に付いていったつもりだったのでしょうが、ファンはどうしても長州の脇役として見ますからね」(同・ライター)

 またカーンのアメリカンスタイルの試合ぶりも、当時の新日ファンから軽く見られる要因となった。
 “ストロングスタイルこそが至高”という多くの猪木信者からすると、モンゴル人ギミックを前面に出すカーンは“アメプロに染まったニセモノ”ということになってしまう。そのスケールの大きな試合ぶりも、長州のハイスパートレスリングに人気が集まる中では“大味”と受け取られた。
 ジャパンプロレスの一員として全日本に参戦するようになってからは、同じ新潟出身の御大ジャイアント馬場に気に入られたこともあり、いくらか見せ場を回されたが、それでもやはり主流とまではならず、ロード・ウォリアーズなど大型外国人選手の“噛ませ犬”が指定席となりつつあった。

 '86年、長州ジャパンプロとの決裂は、カーンせめてもの自己主張だったろう。テレビ実況では「恩知らずのキラー・カーン」などとののしられながらも、日本陣営ではなく外国人扱いでの参戦は、かねてからのカーンの要望でもあった。
 「新日時代から日本と並行して参戦していたアメリカのリングでは、最高で1試合2万ドルのオファーもあったといいます。それが脇役扱いでは、面白くないのも仕方ないでしょう」(同)
 ちなみにそのころの為替レートは1ドル250円前後、2万ドルともなれば500万円近い時代である。

 そうして長州の新日復帰と時期を同じくして全日を去ったカーンは、'87年にWWFと再契約。トップヒールとしてハルク・ホーガンら名だたるベビーフェースのスーパースターたちと抗争を繰り広げ、およそ半年の後に引退する。
 もともと40歳の前後には引退して第二の人生を送ろうという心積もりだったという。新宿歌舞伎町に開いた『スナックカンちゃん』は故・尾崎豊も常連だったことでも知られ、今も場所を変えながら続いている。

〈キラー・カーン〉
 1947年、新潟県出身。本名・小澤正志。中学卒業後、大相撲入りするも伸び悩み廃業。'71年、日本プロレスに入門する。'73年、新日に移籍し、海外修業中にモンゴル人ギミックのキラー・カーンと改名した。'87年に引退。現在は西新宿でちゃんこ居酒屋を経営。