プロレスメディアの中にあって、別格の存在といえるのが東京スポーツだ。
 「週刊プロレスが何十万部と売れていた時期に、長州力は“マスコミはテレビと東スポ以外必要ない”と言ったけど、これは週プロに対する反発などではなく、率直な思いからの言葉だろう。アングルや選手の引き抜き等にまで直接間接に関与してきた東スポは、力道山死後のプロレス界の、いわば陰の主役なんだから」(元新日社員)

 その東スポが会社を挙げ、メディアの枠を超えて興行に関わったのが、1974年のアントニオ猪木対ストロング小林戦だった。猪木との対戦のために国際プロレス退団を表明した小林だが、退団に当たって1千万円の違約金支払い義務が生じると、東スポはこれを肩代わりした。
 「当時、東スポの井上博社長は相当な変わり者というか肝の据わった人だったけど、普通はいくら世紀の一戦が実現すれば部数の伸びが見込めるといっても、そのために1千万は払わない。だから、あれは実質的には、猪木対小林の興行権を東スポ側が買い取ったということだったんだろう。正確な契約内容はわからないが、あの試合はソールドアウトだったのに東スポ社内では招待券が各社員に配られていたからね。もし純粋に新日主催の興行だったなら、そうはならない」(元東スポ社員)

 国際を退団した小林を“フリー”とするのではなく、あえて“東スポ所属”としたあたりにも、宣伝のニオイが漂う。
 なおこの試合は、同年から東スポ主催で始まった『プロレス大賞』において、年間最高試合賞が授与されている。自社が開催に深く関わった試合に、自社の制定する大賞を与えるとはお手盛り感も拭えないが、それでいて他から文句が出ないことが東スポの業界内での権威の証明であり、また試合自体も、そんな批判の起こる余地のない名勝負であった。

 フィニッシュとなった猪木のジャーマン・スープレックスの破壊力と美しさばかりがクローズアップされがちだが、対する小林も持ち前のパワーファイトで攻め込んで、場外戦では猪木の額を叩き割るなどあわやの場面を演出している。
 「そりゃあ当時の小林は押しも押されもせぬ国際のエースで、アンドレ・ザ・ジャイアントに名前を変える前のモンスター・ロシモフにも勝っている。IWA王座を防衛した相手もビル・ロビンソンやローデス&マードックのジ・アウトローズ、元AWA王者のマッドドッグ・バションに元WWWF王者のイワン・コロフ、“マットの魔術師”エドワード・カーペンティア等々の一流どころだった。世界三大タイトルのAWA王座にも何度も挑戦するなど、外国人相手の戦績では猪木以上の経歴を誇っていたわけだからね」(古参記者)

 そんな小林と猪木の、当時としては珍しい日本人頂上対決となれば、蔵前国技館に超満員の観客を集めるのも当然のこと。
 「観衆1万6500人」の発表については、「そこまでの人数は入らない」と水増しを疑う向きもあるが、現実の数字はこの際関係なかろう。館内はスシ詰め状態で天井の梁にぶらさがって観戦するファンもいたほど。当日券を求めながら入場できなかった人々が、国技館の周りに溢れ返ったという事実からも注目度合がうかがえよう。

 二度目の対戦でも、初戦と同様に国技館超満員を記録していて、これは初戦において小林の力量を多くのファンが認めた証拠だろう。

 惜しむらくは猪木戦以降に新日入りした小林が、腰の故障から精彩を欠いたこと。坂口征二と組んで北米タッグ王座を獲得したあたりまでが小林のキャリアハイで、以降はスタン・ハンセンに短時間で敗れたり、MSGシリーズで新鋭の長州力に敗れたりと、いつしか中堅以下の扱いとなってしまった。
 しかし、だからといって国産パワーファイターとして一つの時代を築いた小林の価値は、決して軽んじられるべきものではない。
 豊登や小林に続くパワー型の選手が多く育っていないことからも、小林の資質と、そこに至るまでの努力のほどがうかがい知れる。

 40歳を超えた'81年から長期欠場となり、その3年後に正式引退。“ストロング金剛”としてのタレント活動も、この20年ほどでめっきり減っていて、かつての活躍を知るファンからすれば寂しい限りである。

〈ストロング小林〉
 1940年、東京都出身。'66年、国際プロレス入門。日本で初のマスクマン覆面太郎としてデビュー。翌年には素顔に戻り同団体のエースとなるが、'74年、猪木への挑戦を表明し退団。その後、新日プロ所属に。