没後20年「悪役」大統領ニクソンの功罪を検証する
アメリカ合衆国第37代大統領のリチャード・ニクソンが1994年4月22日に亡くなってから、きょうでちょうど20年が経つ。
歴代のアメリカ大統領のなかでも、ニクソンほど在任中の業績が、功と罪と明確に分けられる人物もいないだろう。このうち最大の罪は何といっても、米大統領では初めて任期半ばで辞任に追いこまれる原因となった「ウォーターゲート事件」だ。
この事件は、1972年の大統領選挙のさなか、ニクソンの再選を策するグループが、ワシントンのウォーターゲート・ビル内にある民主党全国委員会本部に侵入し、盗聴器を仕掛けようとして未遂に終わったことに端を発する。その裁判の進展にともない、大統領自身とその側近が事件に関与しているのではないかとの疑惑が生まれ、最終的にニクソンは権力の座から追われることになったのだ。
■映画でも現実でも名悪役
ところで、ウォーターゲート・ビルに男たちが侵入した際、その現場に女子高生2人がたまたま居合わせた。彼女たちはさらに、見学に出かけたホワイトハウスでニクソンと遭遇、ひょんなことからホワイトハウスへの出入りが認められる。そしてニクソンの執務室にも通ううち、事件への彼の関与を示す決定的な証拠まで手に入れてしまうのだった。……いや、これは事実ではない。映画「キルスティン・ダンストの大統領に気をつけろ!」(アンドリュー・フレミング監督、1999年)でのお話だ。
この映画は、キルスティン・ダンストとミシェル・ウィリアムズが演じる、いかにも政治とは縁遠い女の子を主人公とするコメディである。それでいて、事件やニクソンについてポイントをきっちり押さえているのが面白い。
たとえば劇中、ニクソンは、前々任のケネディの時代からホワイトハウスで飼われている犬を、「チェッカーズ」と勝手に呼んでいる。これは彼が昔、実際に飼っていた犬の名前からとったもの。1952年に共和党の副大統領候補に選出されるにあたり、政治資金疑惑が持ちあがった際、彼は自らの潔白を証明する演説で、家族とともにその飼い犬の名前をあげ、「チェッカーズ演説」とも呼ばれた。
映画にはまた、ニクソンを徹底した調査報道で追及したことで有名な、「ワシントン・ポスト」紙の記者、ボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインも登場する(劇中の2人の関係はどこかBLくさい)。彼らは、事件のカギを握る重要な情報を示してくれた人物を、相手の立場も名前も隠して“ディープ・スロート”と呼んだ。劇中ではその正体が、くだんの女子高生2人組だったものとして物語が展開する。
ディープ・スロートの正体については、長らくさまざまな憶測が飛び交っていた。しかし2005年、FBIの副長官だったマーク・フェルトが自ら名乗り出て、その謎は解明された。「大統領に気をつけろ!」公開の時点ではその正体はまだ不明だったおかげで、女子高生をその役に据えて物語をつくることもできたわけだが、いざ事実が判明してしまうと、想像の余地がなくなって、ちと味気なくはある。
さて、ウッドワードとバーンスタインは、ニクソンの疑惑を追及する過程を『大統領の陰謀』(1974年)という著作にまとめている。同作はピュリッツァー賞を得て、さらに1976年には映画化(アラン・J・パクラ監督)もされた。映画では彼らをロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマンが演じ、アカデミー賞4部門を受賞するなど高い評価を受けた。
ニクソンやウォーターゲート事件をとりあげた映画はこのほかにもジャンルを問わず数多い。それは、ニクソンこそ第二次大戦後のアメリカにおける最大級のヒール役であることの、何よりの証しともいえそうだ。
映画監督のオリバー・ストーンは2012年に、歴史学者のピーター・カズニックと組んで「オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史」というテレビのドキュメンタリーシリーズをつくった。番組に収まりきらなかった内容を含む書籍版では、ニクソンがいかに世界各地の紛争や独裁政権に肩入れし多くの犠牲者を出したかが、徹底して断罪されている。
そのストーンが撮った伝記映画「ニクソン」(1995年)では、意外にも、ニクソンへの同情が垣間見える。たしかに、アンソニー・ホプキンス演じるニクソンは、人を食べたりこそしないものの、猜疑心や嫉妬心に狂い、鬼気迫るものがある。しかし、貧しい生い立ちを描いたくだりや、リンカーン記念館に反戦デモに集まった若者たちにニクソンが語りかける場面など、印象深いシーンも多い。
映画「フロスト×ニクソン」(ロン・ハワード監督、2008年)では、イギリスの実在のテレビ司会者、デービッド・フロスト(2013年8月に死去)が、人気の凋落から自身の再起をかけて、すでに大統領を辞任していたニクソンにインタビューを挑むさまが描かれる。同作はもともと舞台で上演され、そこでそれぞれフロストとニクソンを演じたマイケル・シーンとフランク・ランジェラを映画化に際しても主演に据えた。肝心のウォーターゲート疑惑について頑なに語るのを拒むニクソンに、いかに口を開かせるか、その展開はじつにスリリングだ。
その劇中、最後のインタビューを翌週に控えた金曜の晩、酒に酔ったニクソンが唐突にフロストに電話をかけ、饒舌に語るシーンがあった。大嶽秀夫『ニクソンとキッシンジャー』によれば、ニクソンの酒癖は、大統領在任中しばしば側近を心配させたらしい。また《興奮すると「とどめようのない電話魔」になって側近を悩ませた》ともいう。くだんの場面は、そんなニクソンの性癖を物語上、うまく生かしたものともいえそうだ。
■永遠のライバル・ケネディ
ニクソンととかく比較されがちな人物として、彼の前々任の大統領にあたるジョン・F・ケネディがいる。ニクソンは保守系の共和党、ケネディはリベラル系の民主党と、所属政党が違うだけでなく、両者は何かにつけ対照的だった。出自からして、ケネディは大富豪にして政界でも活躍した父を持つ、典型的な東部エスタブリッシュメントだったのに対し、ニクソンは南部の貧しい雑貨商の息子である。
いずれも1946年に下院議員に初当選して政治家としてスタートしたが、ニクソンは一足先に1950年に上院議員に当選。その2年後にケネディが同議員に当選したときには、ニクソンはアイゼンハワーの副大統領に当選している。このときニクソンは39歳という若さであった。このときケネディは35歳。そう、じつは2人は4歳しか違わない、ほぼ同世代なのだ。
だが、先に大統領となったのはケネディだった。1960年の大統領選における2人のテレビ討論はいまだに語り草である。このとき有権者に若々しさを印象づけたケネディは僅差でニクソンに勝利した。
その後も地元カリフォルニア州知事選に敗れ、浪人生活を余儀なくされたニクソンだが、1968年の大統領選に再出馬、ついにその座を射止めた。在任中には、泥沼化していたベトナム戦争からの米軍撤退、冷戦下におけるソ連との緊張緩和(デタント)、それから敵対していた中国に接近をはかるなど、とりわけ外交面で実績を残した。その成果は、志半ばで凶弾に斃れたケネディを上回ったといっていいだろう。ケネディが大統領在任中に発表した月着陸計画も、その実現を大統領として見届けたのはニクソンであった。
他方、ニクソン政権は国内政治ではめぼしい成果はないとされる。だが、前出の『ニクソンとキッシンジャー』によれば、彼の在任中の政策を細かく見ていくと、ケネディ〜ジョンソンの民主党政権を引き継ぐかのような福祉や経済政策を実施する一方で、経済的自由や規制緩和をめざす、後年のネオリベラリズムの原型ともいうべき構想も見出せるようだ。
ニクソンはまた、ポピュリズム政治の先駆者でもあった。わかりやすい例としてはテレビの利用があげられる。ニクソンが外国を訪問するたび、スタッフらが繁華街に乗りこんで意図的に交通渋滞を起こし、群衆が歓迎のために集まっているかのような映像をニュースのためにつくりあげたことは、その一例だ(大嶽、前掲書)。
■意外!? 名文家の一面も
ポピュリズム政治家としてのニクソンはまた、既得権益を持つ東部エスタブリッシュメントを「敵」として、批判を続けた。だが、ニクソンは彼らに劣らない教養の持ち主でもあった。そのことは、最近文庫化された著書『指導者とは』を読んでもあきらかだ。
本書は、イギリスのチャーチル、フランスのドゴール、日本の戦後改革に尽力したマッカーサーと吉田茂、旧西ドイツのアデナウアー、旧ソ連のフルシチョフ、中国の周恩来と、ニクソン自ら政治家として出会った各国の指導者たちの評伝集だ。それは現代史の貴重な記録というだけでなく、読物としても十分面白い。正直、私は本書を読むまで、ニクソンがこれほどの名文家だとは思わなかった。
ただ、ときおり愚痴めいたものもあらわれる。たとえば、現代の政治報道に対しての《今日の政治指導者に向けられているような細々(こまごま)とした取材では、チャーチルやドゴールの如き偉大な独創的政治家を殺してしまうのではないかと、私は恐れる》との一文は、大統領在任中、メディアにさんざん攻撃されたニクソンの恨み節にも読める。
ニクソンは本書のなかで「歴史をつくる最良の方法は、それを書くことだ」というチャーチルの言葉を引いている。その姿勢は、大統領辞任後、旺盛な著述活動を繰り広げたニクソン自身にも通じよう。毀誉褒貶ありながら、現在にいたるまで強い印象を残すニクソン。200余年にわたるアメリカ史においても、こんな元大統領は、ちょっといないのではないか。
(近藤正高)
歴代のアメリカ大統領のなかでも、ニクソンほど在任中の業績が、功と罪と明確に分けられる人物もいないだろう。このうち最大の罪は何といっても、米大統領では初めて任期半ばで辞任に追いこまれる原因となった「ウォーターゲート事件」だ。
この事件は、1972年の大統領選挙のさなか、ニクソンの再選を策するグループが、ワシントンのウォーターゲート・ビル内にある民主党全国委員会本部に侵入し、盗聴器を仕掛けようとして未遂に終わったことに端を発する。その裁判の進展にともない、大統領自身とその側近が事件に関与しているのではないかとの疑惑が生まれ、最終的にニクソンは権力の座から追われることになったのだ。
ところで、ウォーターゲート・ビルに男たちが侵入した際、その現場に女子高生2人がたまたま居合わせた。彼女たちはさらに、見学に出かけたホワイトハウスでニクソンと遭遇、ひょんなことからホワイトハウスへの出入りが認められる。そしてニクソンの執務室にも通ううち、事件への彼の関与を示す決定的な証拠まで手に入れてしまうのだった。……いや、これは事実ではない。映画「キルスティン・ダンストの大統領に気をつけろ!」(アンドリュー・フレミング監督、1999年)でのお話だ。
この映画は、キルスティン・ダンストとミシェル・ウィリアムズが演じる、いかにも政治とは縁遠い女の子を主人公とするコメディである。それでいて、事件やニクソンについてポイントをきっちり押さえているのが面白い。
たとえば劇中、ニクソンは、前々任のケネディの時代からホワイトハウスで飼われている犬を、「チェッカーズ」と勝手に呼んでいる。これは彼が昔、実際に飼っていた犬の名前からとったもの。1952年に共和党の副大統領候補に選出されるにあたり、政治資金疑惑が持ちあがった際、彼は自らの潔白を証明する演説で、家族とともにその飼い犬の名前をあげ、「チェッカーズ演説」とも呼ばれた。
映画にはまた、ニクソンを徹底した調査報道で追及したことで有名な、「ワシントン・ポスト」紙の記者、ボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインも登場する(劇中の2人の関係はどこかBLくさい)。彼らは、事件のカギを握る重要な情報を示してくれた人物を、相手の立場も名前も隠して“ディープ・スロート”と呼んだ。劇中ではその正体が、くだんの女子高生2人組だったものとして物語が展開する。
ディープ・スロートの正体については、長らくさまざまな憶測が飛び交っていた。しかし2005年、FBIの副長官だったマーク・フェルトが自ら名乗り出て、その謎は解明された。「大統領に気をつけろ!」公開の時点ではその正体はまだ不明だったおかげで、女子高生をその役に据えて物語をつくることもできたわけだが、いざ事実が判明してしまうと、想像の余地がなくなって、ちと味気なくはある。
さて、ウッドワードとバーンスタインは、ニクソンの疑惑を追及する過程を『大統領の陰謀』(1974年)という著作にまとめている。同作はピュリッツァー賞を得て、さらに1976年には映画化(アラン・J・パクラ監督)もされた。映画では彼らをロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマンが演じ、アカデミー賞4部門を受賞するなど高い評価を受けた。
ニクソンやウォーターゲート事件をとりあげた映画はこのほかにもジャンルを問わず数多い。それは、ニクソンこそ第二次大戦後のアメリカにおける最大級のヒール役であることの、何よりの証しともいえそうだ。
映画監督のオリバー・ストーンは2012年に、歴史学者のピーター・カズニックと組んで「オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史」というテレビのドキュメンタリーシリーズをつくった。番組に収まりきらなかった内容を含む書籍版では、ニクソンがいかに世界各地の紛争や独裁政権に肩入れし多くの犠牲者を出したかが、徹底して断罪されている。
そのストーンが撮った伝記映画「ニクソン」(1995年)では、意外にも、ニクソンへの同情が垣間見える。たしかに、アンソニー・ホプキンス演じるニクソンは、人を食べたりこそしないものの、猜疑心や嫉妬心に狂い、鬼気迫るものがある。しかし、貧しい生い立ちを描いたくだりや、リンカーン記念館に反戦デモに集まった若者たちにニクソンが語りかける場面など、印象深いシーンも多い。
映画「フロスト×ニクソン」(ロン・ハワード監督、2008年)では、イギリスの実在のテレビ司会者、デービッド・フロスト(2013年8月に死去)が、人気の凋落から自身の再起をかけて、すでに大統領を辞任していたニクソンにインタビューを挑むさまが描かれる。同作はもともと舞台で上演され、そこでそれぞれフロストとニクソンを演じたマイケル・シーンとフランク・ランジェラを映画化に際しても主演に据えた。肝心のウォーターゲート疑惑について頑なに語るのを拒むニクソンに、いかに口を開かせるか、その展開はじつにスリリングだ。
その劇中、最後のインタビューを翌週に控えた金曜の晩、酒に酔ったニクソンが唐突にフロストに電話をかけ、饒舌に語るシーンがあった。大嶽秀夫『ニクソンとキッシンジャー』によれば、ニクソンの酒癖は、大統領在任中しばしば側近を心配させたらしい。また《興奮すると「とどめようのない電話魔」になって側近を悩ませた》ともいう。くだんの場面は、そんなニクソンの性癖を物語上、うまく生かしたものともいえそうだ。
■永遠のライバル・ケネディ
ニクソンととかく比較されがちな人物として、彼の前々任の大統領にあたるジョン・F・ケネディがいる。ニクソンは保守系の共和党、ケネディはリベラル系の民主党と、所属政党が違うだけでなく、両者は何かにつけ対照的だった。出自からして、ケネディは大富豪にして政界でも活躍した父を持つ、典型的な東部エスタブリッシュメントだったのに対し、ニクソンは南部の貧しい雑貨商の息子である。
いずれも1946年に下院議員に初当選して政治家としてスタートしたが、ニクソンは一足先に1950年に上院議員に当選。その2年後にケネディが同議員に当選したときには、ニクソンはアイゼンハワーの副大統領に当選している。このときニクソンは39歳という若さであった。このときケネディは35歳。そう、じつは2人は4歳しか違わない、ほぼ同世代なのだ。
だが、先に大統領となったのはケネディだった。1960年の大統領選における2人のテレビ討論はいまだに語り草である。このとき有権者に若々しさを印象づけたケネディは僅差でニクソンに勝利した。
その後も地元カリフォルニア州知事選に敗れ、浪人生活を余儀なくされたニクソンだが、1968年の大統領選に再出馬、ついにその座を射止めた。在任中には、泥沼化していたベトナム戦争からの米軍撤退、冷戦下におけるソ連との緊張緩和(デタント)、それから敵対していた中国に接近をはかるなど、とりわけ外交面で実績を残した。その成果は、志半ばで凶弾に斃れたケネディを上回ったといっていいだろう。ケネディが大統領在任中に発表した月着陸計画も、その実現を大統領として見届けたのはニクソンであった。
他方、ニクソン政権は国内政治ではめぼしい成果はないとされる。だが、前出の『ニクソンとキッシンジャー』によれば、彼の在任中の政策を細かく見ていくと、ケネディ〜ジョンソンの民主党政権を引き継ぐかのような福祉や経済政策を実施する一方で、経済的自由や規制緩和をめざす、後年のネオリベラリズムの原型ともいうべき構想も見出せるようだ。
ニクソンはまた、ポピュリズム政治の先駆者でもあった。わかりやすい例としてはテレビの利用があげられる。ニクソンが外国を訪問するたび、スタッフらが繁華街に乗りこんで意図的に交通渋滞を起こし、群衆が歓迎のために集まっているかのような映像をニュースのためにつくりあげたことは、その一例だ(大嶽、前掲書)。
■意外!? 名文家の一面も
ポピュリズム政治家としてのニクソンはまた、既得権益を持つ東部エスタブリッシュメントを「敵」として、批判を続けた。だが、ニクソンは彼らに劣らない教養の持ち主でもあった。そのことは、最近文庫化された著書『指導者とは』を読んでもあきらかだ。
本書は、イギリスのチャーチル、フランスのドゴール、日本の戦後改革に尽力したマッカーサーと吉田茂、旧西ドイツのアデナウアー、旧ソ連のフルシチョフ、中国の周恩来と、ニクソン自ら政治家として出会った各国の指導者たちの評伝集だ。それは現代史の貴重な記録というだけでなく、読物としても十分面白い。正直、私は本書を読むまで、ニクソンがこれほどの名文家だとは思わなかった。
ただ、ときおり愚痴めいたものもあらわれる。たとえば、現代の政治報道に対しての《今日の政治指導者に向けられているような細々(こまごま)とした取材では、チャーチルやドゴールの如き偉大な独創的政治家を殺してしまうのではないかと、私は恐れる》との一文は、大統領在任中、メディアにさんざん攻撃されたニクソンの恨み節にも読める。
ニクソンは本書のなかで「歴史をつくる最良の方法は、それを書くことだ」というチャーチルの言葉を引いている。その姿勢は、大統領辞任後、旺盛な著述活動を繰り広げたニクソン自身にも通じよう。毀誉褒貶ありながら、現在にいたるまで強い印象を残すニクソン。200余年にわたるアメリカ史においても、こんな元大統領は、ちょっといないのではないか。
(近藤正高)