『シュナの旅』(宮崎駿/アニメージュ文庫)アニメ『ゲド戦記』の原案。オールカラーで描かれた絵物語。1983年に出版。

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今夜金曜ロードショーは『ゲド戦記』である。
宮崎駿の息子である宮崎吾朗が監督だ。
2006年の作品。ジブリ作品としては、2004年『ハウルの動く城』の次の作品である。

多くの映画レビューで酷評され、2006年のワースト作品だとも言われた。
第63回ヴェネツィア国際映画祭で特別招待作品だが評判は最低位ランク。
原作者のアーシュラ・K・ル=グウィンも「原作の精神とはひどくかけはなれている」という声明を発表した。
さんざんである。

アニメ『ゲド戦記』は、そんなにも駄作なのだろうか?

クレジットには原案『シュナの旅』もクレジットされている。
『シュナの旅』は、宮崎駿が描いた絵物語。
たしかに『ゲド戦記』と『シュナの旅』を比べると、とても似ている。
ヤックルという動物と王子の乗る馬の姿が似ている。
その馬に乗って、王子が旅をするというプロット。
奴隷装甲車のデザインは、ほぼ同じ。
それ以外のさまざまなデザインやシーンが原案となっている。
だから、初監督作品に、宮崎駿作品レベルを求めるのが酷だと分かっていても、ついつい連想し、比較してしまうのだ。

宮崎駿自身は「あとがき」で、『シュナの旅』は、チベットの民話『犬になった王子』(君島久子・後藤 仁/岩波書店)が元になっていると書いている。
だが、鈴木敏夫がインタビューの中で語っているように、『シュナの旅』は『ゲド戦記』の翻案でもあるだろう。
だから、“『シュナの旅』をそのままやったらどうか”と、宮崎駿自身が提案していたのだ、と鈴木敏夫は語っている。
ところが、
“宮さんという人はすごい人で、そういったことを自分が忘れちゃうんですね。それで、映画を見たときに『シュナの旅』だったから驚いている。なんなんだこの人は、と思って。自分でいったことを忘れてる、あれ”(鈴木敏夫『風に吹かれて』P216)

アニメ『ゲド戦記』は、『ゲド戦記』3巻「さいはての島へ」に、1巻「影との戦い」の要素を加え、さらに宮崎駿『シュナの旅』をミックスして、作られている。
ただ、それらのどの作品にもない完全にアニメ『ゲド戦記』だけのオリジナルなシーンがある。
それは、タイトルが出る前に描かれる部分。
王子アレンが、王様を殺すエピソードだ。
この作品の異様なところは、このエピソードが、タイトル以降、ほぼまったく語られないことだ。
王様が殺された後の王国の様子もまったく描かれない。
王を殺し逃亡した王子に、追手を放った様子も描写されない。
王子が王を殺した理由も判然としない。
王様は良き王として描かれていて、王子は、完全に、犯罪者であり、物語的に「悪役」だ。
ふつうの作劇なら、事情が描かれ、主人公に感情移入できるように仕向けるだろう。
だが、それをしない。
「わからないんだ。どうしてあんなことをしたのか」
「…お父さんにひどい事されたの?」
「いや父は立派な人だよ。ダメなのは僕のほうさ。いつも不安で自信がないんだ。なのに時々自分では抑えられないくらい凶暴になってしまう。自分の中にもうひとり自分がいるみたいなんだ」と、アレンとヒロインのテルーが語るシーンが中盤にあるのだが、これでは、ただの「キレてしまった少年」だ。

この異様な構成が、作品にずっと影を落としている。
アニメ『ゲド戦記』のキャッチコピーのひとつは、「父さえいなければ、生きられると思った。」だった。
これだけそろえば、宮崎吾朗=王子アレンで、宮崎駿=王という連想をするなというほうが無理だろう。
尊敬する父を殺さなければ、何もできなかった。
タイトルが出る前に、父を殺し、そこから先は、父ではない自分の作品を創りだすのだという宣言のようにも解釈できる。
だが、主人公はいつまでも自信を持てず、生きる気力を失ったままだ。
父は大きく、その影響から抜け出せない。
もがき、苦しみ、そこから抜け出す後半が、勧善懲悪的展開であることと抽象的なテーマをそのまんまセリフで説明しちゃうのは残念だけど、大きな父の影を異様な構成で描いているという視点で観れば、めちゃくちゃ酷評するほどの駄作じゃないと思います。

補足。
1983年初版のフルカラー文庫『シュナの旅』がまだ手に入るとは!
後半に出てくる「神人の土地」は、『風の谷のナウシカ』の腐海そっくりだったり、ゆらゆらと歩く巨人が『天空の城ラピュタ』のロボット兵を連想させたり、ヒロインのテアは気丈な美少女だったり、宮崎駿作品のエッセンスが詰まった一冊。オススメです。(米光一成)