前回の続き。

44年度のドラフト会議の焦点は、
−ビッグ3
に絞られた。早大の遊撃手荒川尭、同じく中堅手谷沢健一、もう一人は三沢高校の投手太田幸司であった。谷沢は中日に入団し、太田は近鉄に入り、荒川は大洋から指名された。太田の人気の素晴らしさは、高校生としては空前ともいえよう。

夏の全国大会の決勝戦において、四国の古豪松山商業高校と顔を合わせ、延長18回戦、零対零で引き分けるに及んで、投手太田の人気は爆発的となった。日本人の「判官びいき」に太田ほどぴったりはまった選手も稀である。翌日の再決勝戦では2−4で敗れたが、優勝した松山よりも負けた三沢に人気集中し、中でも連投の太田の人気はさらに高まった。 (以上、『野球百年』)
荒川尭のことは次回に譲るとして、今回は太田幸司について触れたい。昭和44年(1969年)当時、岩手に住んでいたボクにとって、太田はとてつもなく大きな大・大・大ヒーローだった。

■その瞬間、「セーフだっ!」と、テレビの前に陣取った大人たちが口を揃えた。ボクら子供もマネをして「セーフ、セ―フ・・・」と叫んだ。

それは、こんな場面だった。

スコア0−0で迎えた延長15回裏、三沢の攻撃は一死満塁の好機を迎えていた。一打サヨナラの場面である。打者は9番・立花五雄。松山商のエース・井上明は、スクイズ警戒で2球ウエストし、次の3球目もボールになった。カウント0−3。松山商のピンチが極限にまで膨らんだ。

松山商・井上明の話。
「バックはとにかく声も出ない。ベンチからの指示もない。スタンドの三沢側半分が女性ファンを中心に沸きに沸いて、反対の松山商側はシーンと静まり返っていたのを覚えています。ただ、僕は0−3になっても押し出しというのは全然考えなかった。捕手の大森から返球を受け取って次に投げるまで、いつもの間合い、呼吸を崩さないようにとそれだけ。だからけん制も挟んでいない」。

そして井上は2つストライクを投げ込み、フルカウントから投げた6球目。

立花の当たりは、井上の右側を襲うゴロ。とっさに差し出した左手のグラブを打球がはじいた。その瞬間、三遊間に転がったボールを遊撃手・樋野和寿がカバーして本塁へ矢のような送球。間一髪、アウトになった。

2014.1.10 三沢vs松山商 006.JPG
(写真)延長15回裏、三沢の攻撃は間一髪アウトとなりサヨナラ勝ちを逃す。倒れているのが投手の井上明。左が遊撃手の樋野和寿、捕手は大森光生。走者は三沢・菊池弘義。主審は郷司裕。

■タイミングは微妙だった。主審の郷司裕が「セーフ」と言えば、三沢はサヨナラ勝ちが決まったはずだったのに・・・。

当時は白黒の画像の粗いテレビだったから、今にして思えばアウトかセーフか分かるはずはなかった。が、それまで甲子園の1勝さえ容易でなかった東北の高校が、1勝はおろか深紅の優勝旗が手の届くところに来ていたから、大人も子供もはしゃいでいた。その高揚した気持ちが皆を「セーフ」と叫ばせたのだ。
(8月18日)
松山商 000 000 000 000 000 000 =0
三沢高 000 000 000 000 00 000 =0
(松)井上、(三)太田

■翌日の再戦は、三沢が初回に2点本塁打を浴び、6回にも失点して2−4で敗退した。

(8月19日)
松山商 200 002 000 =4
三沢高 100 000 100 =2
(松)○井上−中村−井上−中村、(三)●太田

太田は2試合、計384球をひとりで投げ抜いた。太田の話。
「結局は力の差だったんでしょう。7:3で向こうの力が上だったと思います。いろいろな局面で、松山商のプレーの厳しさ、すごさを体感しました。自分たちとは違うとずっと思いながらプレーしていたような気もします。僕らがよくあそこまで戦えたなと思います」。

若い女性を中心に「コーちゃんブーム」を巻き起こした太田。その盛り上がりは、後の荒木大輔や斎藤祐樹(いずれも早実)も比ではなかった。

そして、同年秋のドラフトでは、近鉄バファローズに1位で指名され、入団するのだ。近鉄ファンのボクにとっては、三沢の甲子園準Vと合わせ二重の喜びとなった。

≪参考≫
・『高校野球 熱闘の世紀。』(2001年刊、上の写真も)
・『高校野球 忘れじのヒーロー』(2005年刊、下の写真も)
 いずれもベースボールマガジン社


2014.1.10 三沢vs松山商 007.JPG(写真)ひとりで384球を投げぬいた太田幸司。