野村克也氏

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「これが野球だという模範試合を見せてほしい」──。東北楽天ゴールデンイーグルスの育ての親である名将は語る。

――東北楽天ゴールデンイーグルスの育ての親である名将・野村克也さん。今季、リーグ優勝を果たしたチームには監督時代に手塩にかけた中心選手も少なくない。しかし楽天優勝について語る口ぶりは、意外なほどに恬淡としていた。

「最近は楽天の試合をじっくり見る機会がないから、あまりよくわからない。ただ、マー君(田中将大投手)は手の届かない存在になりましたね。大きく成長した。『マー君神の子不思議な子』と私はかつて言いましたが、神様の稲尾(和久)を超える記録を打ち立てたのだから、ケチのつけようのない立派なピッチャーです」

――一方で、楽天に限らず、指導者は一体何を考えているのかと憤る。

「私は以前から、監督は“気づかせ役”だと考えてきたが、今の12球団の監督全員に、野球とは何かと問い質してみたい。今シーズン、ある球団の試合を見ていて、こんな場面があった。1対0で負けている9回の最後の攻撃。ワンアウト・ランナー1塁。足のスペシャリストが代走に出る。相手の投手はフォームの大きい外国人。さて、このランナーをどう進塁させるか。じっくり攻めたい。しかし打撃成績も素晴らしいバッターは、初球をセンターに打ち上げてツーアウト。長打もある好打者だが、ホームランが出る確率は王貞治だって1割を切る。高くはない。そもそも、足のスペシャリストが起用されている。よし、コイツにも仕事をさせてやれという思い、仲間意識はないのか。それと、このケース、初球から打っていいかどうかを、普通ならベンチに確認を取る。それが初球を打ち上げてセンターフライ。次の打者も初球ボールの後の2球目をあっさり打ち上げてゲームセット。味も素っ気もない。草野球以下、解説できない。プロなんだから、これが野球だという模範試合を見せてほしい。このままでは、日本のプロ野球がダメになる」

――凡試合をしていることにさえ気づかない指導者、選手、球団オーナーや経営陣を叱る野村さんだが、高卒テスト生として始まったその野球人生は、プロならではの「気づき」の積み重ねだった。最初の気づきは10代のときに訪れた。

「7人いたテスト入団組のうち4人が捕手。入団してすぐにわかったのは、私たちは投球練習の球を受けるためのブルペンキャッチャーで、2軍の試合にさえ出してはもらえないということでした。合宿所の個室もひどかった。物置だった窓のない部屋に畳を3枚敷いただけ。それでも部屋代と食費で月に3000円かかる。故郷の母親に毎月1000円仕送りをして、これを7000円の月給から引くと残りは3000円です。飯と味噌汁と漬物は喰い放題だが、唯一の栄養源とも言える卵は別料金。それでも、元気つけなくちゃホームランを打てないから卵を頼むわけだけれど、それだけのことにそろばんを弾かなくちゃならなかった。でも私はこの頃、契約で入った選手もテスト生もグラウンドでやることは同じ、ならばグラウンド以外でやることが勝敗をわけると考えた」

――素振り、筋トレに夜の時間を費やし、自分を虐め抜いたという。

「バットだけはよう振ったな。日本一振ったと思ってる。素振りはつまらないし、回数を基準にすると続かない。私がこの単純作業を継続できたのは、振ったときのブッという振幅音に興味を持ったから。ミートポイントで力を爆発させるようなスイングができたときは、この音が短い。そして、この短い音を出すためには、力を抜いていないとダメだということに気がついた。これがおもしろくて、1時間、2時間はすぐに過ぎていきました」

■殴られたら殴り返す

――努力は翌年、実る。試合で使ってももらえないままクビになるのは納得がいかないとフロントに直訴に及んだ2年目のシーズンで3割2分を打ち、ウエスタンリーグの打率部門2位になる。

「翌春の球団初のハワイキャンプに2軍からひとりだけ連れていってもらった。このときもカネがないから夜はホテルの庭でバットを振った。するとこの年から1軍のキャッチャーでレギュラーに定着し、翌年には打率は3割を超え、ホームラン30本でホームラン王も取ったんです。努力に即効性はない。コツコツやるしかない。いつの時代にもいる一流選手と自分は何が違うのか。それを考えながらやるしかない。私の場合は、中西太さんの打撃を真似てみて、しっくりこないので、山内一弘さんの真似に切り替えたらしっくりきた。教えてくれないなら見て盗む。一流の人を真似るのはプロの常識。そういう努力の中で、一流選手と自分との違いや、何が大事なのかということに気づいていく。気づくことのできる人は、夢や希望、向上心、自分はこうなりたいという思いを根っこに持っている人です」

――常に上を見ているから気づくことができる。データに基づく綿密な野球を構築した野村さんは、捕手として、監督として他の追随を許さないが、通算2901安打、657本塁打という金字塔を打ち立てたバッターとしての人生も、徹底した研究と気づきの連続だった。

「友人に頼んで稲尾の投球フォームを16ミリカメラで撮影してもらい、その映像をテープがすり切れるくらい見て研究しました。そしてボールの握りから、インコースについては100%わかるようになった。稲尾攻略です。しかし、それに気づいた稲尾も対応してくる。他の投手もグラブでボールを隠すようになるのはこの頃からです」

――実は、大きな弱点もあった。変化球が打てなかったのだ。

「1軍に上がったばかりの頃は三振王を独走した。カーブが打てない。ノイローゼになるくらい打てない。これが私の短所でした。長所は意識しなくていいが、短所は意識しなくては修復できない。そして短所を補うことができれば長所も伸びる。個人もチームづくりも同じです。では私がどうやって変化球に対応したか。不器用は不器用なりの生き方をすればいいと考えて、配球を読んだ。俗に、山を張る打者は二流とされたが山を張らせたら日本一という自負もあった。試合の展開、相手の心理、配球などの根拠があれば、立派な読みじゃないかと考えました」

――そしてホームラン王に輝くのだが、翌年、さらに翌年と壁にぶつかった。このとき気づきをあたえてくれたのはひとりの先輩だったという。

「野村よ、ぶん殴ったほうは忘れても殴られたほうは忘れないぞ。勝負だから、相手から自分を見ることも大事なんだ。殴られたら殴り返すという当たり前のことに気づかなかった。自分ばかりでなく相手も変わることに気づかなかった。先輩の、あの言葉は未だに耳に残っています。このときからですよ、データに夢中になったのは。相手の自分に対する攻め方が変わったのか変わらないのか。それを知るにはデータしかなかった」

――野球とは何か。冒頭の問いに答えながら広く球界にも気づきを促す。

「野球とは頭のスポーツです。それ以外の答えは出てこない。一球一球の間合いに考え、次に備える。それが野球です。しかし現在のプロ野球は投げて打って、それだけ。苦労して、考え、苦しむというのがないからドラマにならない。オーナーや球団社長には、もっとしっかりしてほしい」

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野村克也
1935年、京都府生まれ。南海、ヤクルト、阪神、楽天の監督を歴任。選手・監督として各通算3000試合を経験。5度のリーグ優勝、3度の日本一を含む12度のAクラス入りを果たした。

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(大竹 聡=文 大沢尚芳=撮影 時事通信フォト=写真)