『盆栽 木々の私生活』アレハンドロ・サンブラ、松本健二訳/白水社

写真拡大

恋してしまうと、自分のイイところを相手に見せたくなってしまいますね。ふだんよりがんばってしまいます。
とくに男子は、釣った魚に餌をやらないなんてこともあるだけに、釣ってるさいちゅうは餌──ふだんより数割増しなイイところ──をガンガンに投入してきます。
そしてここからがヤバいところなのですが、文化系な人は男女問わず、「イイところを見せる」がいつのまにか「よく知っててよくわかってる自分を見せる」にすり替わってしまいます。

 フリオがエミリアについた最初の嘘は、マルセル・プルーストを読んだことがあるというものだった。
読んだ本のことで嘘をつくことはあまりなかったが、〔…〕何かが始まりつつあることが、その何かがどれだけの期間続くにせよ大切なものになることが二人にわかったあの夜、フリオはくつろいだ調子の声で、ああ、プルーストは読んだことがある、十七歳の夏、〔…〕と言った。
十七歳のフリオは『失われた時を求めて』を腰を据えて読むため、祖父母の家を借りた。
もちろんそれは嘘だ。たしかに彼は、あの夏〔…〕たくさん本を読んだが、読んだのはジャック・ケルアック、ハインリヒ・ベル、ウラジーミル・ナボコフ、トルーマン・カポーティ、そしてエンリケ・リンであって、マルセル・プルーストではない。
〔アレハンドロ・サンブラ「盆栽」『盆栽 木々の私生活』所収、松本健二訳、白水社《Ex Libris》。引用者の責任で改行を加えた〕

ああ、やっちゃった。
フリオは読書家です。17歳のときにさかのぼっても、じゅうぶんに読書家だと言えるでしょう。ただ、プルーストを17歳では読んでないし、エミリアとこうして語り合っている20歳になってもまだ読んでない。
フリオのように、20世紀小説をある程度しっかり読んでいる若者にとって『失われた時を求めて』はものすごくよく聞く名前なのです。

読んだ人がたいていは目いっぱい誉めそやす『失われた時を求めて』全7巻は、その長大さ(日本語訳だと集英社文庫版全13冊で註や解説も入れると7700頁超。読み始めたら時間がとられてとりあえずいま読みたいものを後回しにしなければいけなくなくて億劫)と取り巻きの威圧感(この小説を褒め称える人が、エバった、あるいは陶酔した口調で、聞いているほうが恥ずかしくなるような自己愛強そうな物言いをすることがなぜかよくあるんだよなー。←あくまでも個人の感想であり、商品の効能を保証するものではありません)のせいで、
「知ってるけどなかなか読めない名作」
という、気になってるけどうまく掻けない背中の虫刺されみたいなものなんですよ。そういえばピエール・バイヤールに『読んでいない本について堂々と語る方法』(大浦康介訳、筑摩書房)という本があったなあ。

で、エミリアはどうしたかって?

 その同じ夜、エミリアはフリオに初めての嘘をつき、その嘘もまた、マルセル・プルーストを読んだことがあるというものだった。
最初は相槌を打つだけだった。わたしもプルーストは読んだわ。
だがそのあとに長い沈黙が訪れ、それは居心地の悪い沈黙ではなく期待のこもった沈黙だったので、エミリアは話を続けざるをえなくなった。
つい去年のことよ、五か月くらいかかった、だってほら、大学の授業で忙しくしてたから。
それでも全七巻を読破してみようと思って、それが私の読書人生でいちばん大切な数か月になったの。〔引用者の責任で改行を加えた〕

こういうタイプの見栄の張りかたは平成の日本から見るといまはもうない、先帝の御世のいじましく涙ぐましい奇習と成り果ててしまったようにも見えますが、要は
「自分のイイところ見せたい」
がいつの間にか
「自分がこういう人間だと思ってほしい」
にスライドしてしまっているんです。
こんなふたりがいっしょに『失われた時を求めて』を読み始めます。〈二人とも、今回一緒に読むことが、まさしく待ち望んでいた再読であるかのように装わなくてはならなかったので、特に記憶に残りそうな数多い断章のどれかにさしかかると、声を上ずらせたり〉、〈フリオに至っては、あるとき、今度こそプルーストを本当に読んでいる気がする、とまで言ってのけ〉た。あたたた、勘弁して……。

これは、チリの小説家アレハンドロ・サンブラの、「盆栽」(2006)のなかでは、ほんの小さな一挿話にすぎません。この短めの中篇小説というか長めの短篇小説には、ほかにもいくつものささやかな挿話、おそらく当事者以外のだれにも知られなかっただろう小さな棘のような記憶が、地雷のようにはめこまれています。
同じ訳書に収められた「木々の私生活」(2007)もそうですが、こういうチマチマしたライフザイズな挿話は、遠い未来にあるべつの時点で当事者が唐突に思い出したものであることもあり、また当の挿話のなかで、当事者たちがさらにとつぜん過去のことを思い出したりもします。
「木々の私生活」のなかで、妻の帰りを待っているフリアンは、血のつながらない幼い娘に、自作の原稿を読み聞かせています。フリアンのなかには、あやふやなものを含むさまざまな記憶がよみがえり、現在(帰りの遅い妻)へのさまざまな揣摩臆測が生起し(通ってる絵画教室の先生と浮気してるんじゃないの?)、娘の10年後、15年後の未来を想像します。

2作ともに、至近距離から接写するしかないような小さな対象を語っているというのに、複数の人間の何十年という時間を一気に俯瞰できそうな遠くから書いているようにしか思えません。軍事衛星から日常を録画して、好き勝手に早送り・巻き戻し(フィルム時代にできたこの語って不自由だよね。戻してるだけで、いまどきなにも巻いてないのにね)しているみたいな、このひんやりとした、でも登場人物へのいたわりを失うことのない語りは、海猫沢めろんの『愛についての感じ』(講談社)に収められたいくつかの短篇を思い起こさせます。

語る対象となる時間を、人生のなかのさまざまな場所に前後させ、あるいはべつの登場人物の人生のなかでも前後させ、そうすることによって、半生も一生とも呼べそうな比較的長い幅の人生を、小さな、大事件ではけっしてない記憶の点どうしが細い糸でつながりあった星座図のようなものとして、作者は製図していくのです。
この本、先にウェブ上でちょっと話題になっていたので、ついうっかり読んだふりしちゃいそうだった……。
(千野帽子)