悲劇の舞台裏で起きた
知られざる「真実」――北澤豪編(1)

1993年10月28日。「ドーハの悲劇」は、日本サッカー界にとってもっとも衝撃的な事件だった。しかしその後、日本代表を取り巻く環境は劇的に変化し、急速な進歩を遂げた。まさに日本サッカーの進化の歴史は、「ドーハの悲劇」から始まったと言っても過言ではないだろう。そこにはさまざまな"ドラマ"があった。それらは、20年の月日を経ても今なお語り継がれている。そして、いまだに知られていない"真実"もある――。

■イラク戦のピッチに立った選手は
 誰もが「キーちゃん」を求めていた

 1993年、日本はJリーグが開幕し、空前のサッカーブームだった。そんな中、日本代表が10月、アメリカW杯アジア最終予選に挑んだ。

 当時、最終予選はセントラル方式(ひとつの場所ですべての試合を行なうこと)で開催された。カタールのドーハに、1次予選を勝ち上がった6チーム(日本、サウジアラビア、イラン、北朝鮮、韓国、イラク)が集結し、総当りのリーグ戦(勝ち点は、勝利=2、引き分け=1)を実施。上位2チームにW杯の出場権(現在のアジア枠は4.5カ国)が与えられることになっていた。

 各チームが4戦を終えて、日本は2勝1分け1敗(勝ち点5)で首位に立った。最終戦であるイラク戦は、勝てばW杯出場が決まる状況だった。前半を1−0とリードして折り返した日本は、後半に入って一度は同点に追いつかれるものの、中山雅史(ジュビロ磐田/現解説者)のゴールで再び勝ち越した。そのまま試合は進み、まさに勝利は目前に迫っていた。が、試合終了間際に悪夢は訪れた。ショートコーナーからイラクに同点ゴールを奪われて、日本の悲願達成はならなかった。

 テレビ視聴率(テレビ東京)は深夜帯にもかかわらず、48.1%を記録した。サッカー界にとどまらず、日本中の国民にとって、劇的かつ衝撃的な出来事だった。だからこそ、「ドーハの悲劇」には、語り尽くせないほどの、興味深い"物語"があふれている。

 最終戦のイラク戦の選手交代については、当時を知る人間たちの間でよく語られる話題のひとつだ。

 その時代、フィールド選手の交代枠はふたりだった(現在はGKを含めて3人)。日本を率いるハンス・オフト監督(オランダ出身)は後半59分、右のサイドアタッカーを長谷川健太(清水エスパルス/現ガンバ大阪監督)から福田正博(浦和レッズ/現解説者)に代えた。そして81分には、FW中山に代えてFW武田修宏(ヴェルディ川崎/現解説者)を投入した。その采配に、多くの人間が"疑問"を感じた。

 前の試合、つまり4戦目の宿敵・韓国戦の勝利(1−0)に貢献した、北澤豪(ヴェルディ/現解説者)を使わなかったからだ。北澤は、出場停止のMF森保一(サンフレッチェ広島/現サンフレッチェ監督)の代役ながら、フィールドを縦横無尽に走り回って日本の窮地を救った。おかげで、日本は再び希望を手にすることができた。それほどの立役者を、イラク戦の1点を守り切るという苦しい状況の中で、なぜ起用しなかったのか。

 のちに、主将を務めていたDF柱谷哲二(ヴェルディ/現水戸ホーリーホック監督)はこう証言している。

「試合時間が残り20分を切った頃、もうDFラインは上げられない状態だった。ヘディングも、ジャンプもできない。誰もが疲れ切って、気持ちだけでプレイしていた。なかでも、中盤はきつかった。スペースが埋まらない。だから、『北澤を入れてくれ』と思っていた。ピッチにいる僕らは(運動量のある)北澤が欲しかった」

 森保と2ボランチを組んでいたMF吉田光範(ジュビロ/現解説者)も同じ気持ちだった。

「もう、中盤(の選手)は動けなくなっていました。それまでサッカーをやってきて『助けてくれ』なんて思ったことは一度もなかった。でも、あのときは『キーちゃん(北澤)、助けてくれ』『キーちゃんを入れてくれ』と思っていました」

 あれから20年経った今、当事者である北澤はどう思っているのか。彼はオフトの采配の意図を冷静に分析しながら、はっきりとこう答えた。

「やはり(あの交代は)間違いだったと思う」

 そもそも、1992年5月にオフトが日本代表監督に就任したとき、北澤はレギュラーだった。しかしW杯アジア1次予選(1993年4月〜)直前の沖縄合宿で左足中足骨を疲労骨折。大事な1次予選を棒に振ってしまった。同時に、代表レギュラーの座を失ったが、北澤は懸命なリハビリをこなして記念すべきJリーグ開幕戦(1993年5月15日)には早くもピッチに戻ってきた(後半から途中出場)。そして9月、最終予選を1カ月後に控えたスペイン合宿で代表に合流した。

 そこで、レギュラー奪回を目論んでいた北澤は、オフト監督から思いもしなかったことを言われたという。

「おまえは、招集した27名中、27番目の選手だ。それを理解して行動するように」

 北澤にとっては、厳しい通告だった。だからといって、北澤がめげることはなかった。逆に、その言葉が彼の闘争心に火をつけた。疲労骨折の影響でコンディションは完璧ではなかったものの、スペイン合宿で懸命にアピール。最終予選に臨む22名のメンバー入りを果たして、ドーハに向かった。

■レギュラー陣はへこんでいたけど
 サブのメンバーは諦めていなかった

 最終予選の前年、1992年には地元・広島で開催されたアジアカップを制した日本。オフトのサッカーも徐々に浸透し、北澤はW杯出場へ、かなりの手応えを感じてしたという。ところが、最終予選は厳しいスタートとなった。初戦のサウジアラビア戦を0−0で引き分けると、2戦目のイラン戦では1−2と敗れて、早くもW杯出場に黄信号が灯った。

 崖っぷちに追い込まれたメンバーは、がっくりと肩を落として沈み込んでいた。その姿を見て、北澤は愕然とした。

「危機感はあったけれども、次の北朝鮮戦に勝てば何とかなると思っていた。それなのに、試合に出ていた選手たちはすっかりへこんでいた。それを見て『おいおい』って、『そんなことじゃ困りますよ、まだまだがんばりましょうよ』と思いましたね(笑)。たぶん、サブ組のメンバーはみんなそう思ったんじゃないかな。

 というのも、現地に入ったときからそうだったんですけど、サブ組のメンバーのモチベーションは異常に高かった。気温40度くらいある昼間、上空では戦闘機が飛んでいる中で毎日ガンガン走っていたからね。みんな一生懸命で、本当に元気だった。それは、試合に出場したいというアピールもあるけど、いつ試合に出てもいいような準備を整えていた。それが(代表では)当たり前だった。試合に出られないから"腐る"とか、そんなことはあり得ない。代表って、自分のキャリアを積む場じゃないからさ。サブでもただのサブじゃない。日本代表のサブなわけだから、そこには強い"責任"と"誇り"があった。

 だから、たった2戦を終えたばかりで(W杯出場を)諦め切れるわけがない。(イラン戦のあと)宿舎のホテルに帰ってからは、レギュラー選手の部屋を回って、落ち込んだチームを盛り上げましたよ。当時は、みんなが集まるコミュニケーションルームっていうのがあって、そこでゴンちゃん(中山)らと大声で歌ったりしてね。今思えば、アホなことしていたなって思うけど(笑)、チームに対してそれだけ強い思い入れがあった」

 続く北朝鮮戦は、3−0で快勝した。サブ組の"影のサポート"は効果てきめんだったのだ。開き直った日本は、過去2戦とは違う動きの良さを見せた。そのうえ、サブ組だった中山が初先発を果たして活躍。それが、さらにチームに勢いをつけた。

 北澤もその勢いに乗った。森保が北朝鮮戦で累積2枚目のイエローカードを受けて、代わって北澤が4戦目の韓国戦で先発出場した。

「北朝鮮戦の終盤に途中出場して、それは次の韓国戦のために『少しでも慣れておけ』という意味だと思った。オフトに何か言われたわけではないけど、そこに『次の韓国戦はおまえだぞ』というメッセージを感じた。だから、(韓国戦に向けて)準備はできていた」

 その言葉どおり、韓国戦では北澤の奮闘が際立っていた。もう負けられないというプレッシャーの中、北澤は何ら気負うことなく、自らの力を存分に発揮。宿敵の攻撃の芽を摘んで、日本の勝利に貢献した。

「(宿敵の)韓国と言っても、オレが出た試合では負けた印象がない(オフトジャパン発足後は2戦2分け)。怯(おび)えることもなく、やりやすい相手だと思っていた。もちろん負けたら終わりだから......、プレッシャーはありましたよ。前日はよく眠れたか? と聞かれたら、眠れなかったと思うし......。だけど、1日くらい寝なくても、1試合ぐらいなんとかなるという思いがあった。とにかく、最終予選の韓国戦という、とても大事な試合のピッチに立てるというのはうれしかったし、大きな責任とチャンスをもらえたことで意気に感じていた。そして試合が始まって、自分のテンポどおりにプレイができた。韓国の強さとか激しさというものは感じられなくて、立ち上がりから『これはいけるな』という感触があった」

 試合前に森保から「頼むよ、キーちゃん」と声をかけられた北澤は、自らの仕事を全うして勝利に貢献した韓国戦の後、今度は森保に思いを託した。

「次(イラク戦)は、頼むぞ!」

 森保はその言葉をずっと覚えていると語った。「あの北澤の言葉で気が引き締まったというか、やるしかないんだという気持ちになった」と、当時のことを振り返った。北澤もそのやり取りは覚えている。

「オフトの日本代表では、森保がずっとスタメンでやってきたわけだからね。勝負のかかった試合になればなるほど、本来のメンバーに戻るのは当たり前。だから、森保に言葉をかけた。あいつも、試合前にオレに『頼むぞ』って言ってきたしね。選手同士の戦いの中では『オレのほうが上だ』というプライドは誰に対してもあるけど、『なんで、おまえが出るんだよ』といったギスギスした雰囲気はなかった。自分が試合に出られなければ、誰かに託すという感覚があった。今で言うなら"絆"っていう言葉になるのかもしれないけど、あのチームにはそれがあった。W杯出場というひとつの目標があって、みんなでそのミッションを成し遂げようという強い気概があった。だから、それぞれが助け合う。で、チームがひとつになる。それは至って当然のことだと思う」

◆次回へつづく (※文中敬称略)

北澤 豪(きたざわ・つよし)
1968年8月10日生まれ。東京都出身。修徳高校卒業後、本田技研(JSL)入り。その後、1991年に読売クラブ(のちのヴェルディ川崎)に移籍。以来、2002年に引退するまでヴェルディひと筋で活躍。日本代表でも"ダイナモ"と称されて豊富な運動量を武器に奮闘した。国際Aマッチ出場58試合(3得点)。日本サッカー協会理事。

渡辺達也●文 text by Watanabe Tatsuya