『失踪日記2 アル中病棟』吾妻ひでお/イースト・プレス

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1998年12月28日、漫画家吾妻ひでおは都内某所のA病院に入院した。精神科B病棟、通称アル中病棟である。
その前年から酒量が増えた吾妻は、ついに連続飲酒に入っていた。少しでもアルコールが切れると手の震えや冷汗、悪寒などが止まらなくなる。幻聴、幻覚もある。隣の家に監禁されている少女の声(もちろん妄想)がずっと聞えるようになった。恐怖感に打ちのめされ、自殺念慮も出る。

───恐ろしい。なんか恐ろしいね。恐ろしいと頭で考える自分の声すらも恐ろしいんだよね。

世界は吾妻の敵になっていた。その状態を見かねた妻子の手で、吾妻はA病院に送り届けられたのである。

『失踪日記2 アル中病棟』は、吾妻ひでおが自身の体験を元にして書いた入院まんがである。1969年にまんが家としてデビューを果たした吾妻はSFギャグまんがというジャンルの開拓者であり、『不条理日記』『スクラップ学園』『ななこSOS』などの作品はファンから絶大な支持を受けている。また、可愛い女の子のキャラクターでも有名で、いわゆる「萌え」の先駆者でもある。
しかし作品に完全主義を求める性格が災いし、1989年から1992年にかけて長期の失踪生活を二度体験もしている。そのエピソードを振り返ったのが、前著『失踪日記』だった(第34回日本漫画化協会賞大賞、第10回手塚治虫文化漫画大賞などを受賞)。
失踪生活の間にはそれほど悪化しなかったが、実は1985年ごろから吾妻は自分がアルコール依存症であることを自覚していた。夫・鴨志田穣(故人)が同じ病に取り憑かれていたことからアルコール依存症に強い関心を持つ西原理恵子と、『実録あるこーる白書』を共同で著していることは以前にもお伝えしたとおり(協力・月乃光司)。
『失踪日記』で描かれた内容は、入院生活への長い助走だったと言うこともできるのである。『アル中病棟』は全320ページ超の書き下ろし作品で、さすがの迫力だ。

アルコール依存症をテーマにし、入院生活を描いた創作としては中島らも『今夜、すべてのバーで』などの前例がある。しかし『アル中病棟』にはそれらの先行作品にはないものがある。徹底的な現実感だ。いかなる美化もなく、透徹した客観的な視線で吾妻は自分の入院生活を描いている。
吾妻の作品には作者が二頭身のキャラクターとしてよく登場する。だが、この作品ではほぼ3頭身、大ゴマでは4頭身として描かれているのだ。デフォルメされてはいるが、現実へと大きく接近している。アップをほとんど使わず、コマにキャラクターの全身が収まるように描くのは吾妻作品の特徴だが、その手法がさらに進められている。読者は、固定カメラで病棟の中を覗いているかのような臨場感を味わうだろう。

B病棟には多くの先客があり、また後からも次々と新しい入院患者がやってくる。吾妻はそのすべてに顔を与える。二十人超のキャラクターが、生きた人間として動き回っているのだ。彼らにはそれぞれ強烈な個性がある。
もっとも強烈な印象を残すのは吾妻と同室になった浅野で、彼は片付けがまったくできず、さらには計画性がないので月の小遣いを支給されるとすぐに使ってしまう。金がなくなると、新しい入院患者に対して寸借詐欺を働くのである。さらに、夜中に病室の中で小便をする奇癖もあり、吾妻を困らせる。
その他、フルコンタクト空手の有段者で気性の激しい安藤や、自己中心的な性格の杉野、修道院上がりという謎めいた経歴を持つ御木本、患者から100円ずつせびっては貯金し○○○(と書かれているがおそらくソープ)に行く福留など強烈な個性の持ち主が揃っており、集団劇として読んでもおもしろい。これだけ多くの人間を出して、しかも読者を混乱させずに描き分けるのは困難な技であるはずだ。何か劇的な事件でも起きれば別だが、同じ日常が続くだけの入院生活ではそんなドラマは望めない。淡々と生きているだけ。でも、おもしろい。
彼らに対する吾妻の視線は非常に客観的かつ公平で、いい面も悪い面も余さずに描かれている。だからこそ、各人の違いが際立つのである。もちろん吾妻本人も、小心で裏表があるなど、欠点のある人間として登場する。おもしろいのは、浅野のように困った人物であっても、読み進めているうちになんとなく愛着が湧いてくることである。どこかに愛嬌があると思えてくる。それが素敵である。
アル中病棟は人の居場所としては極北のものだろうが、そこで暮らす人たちにもそれぞれに存在意義があり、生きているだけの価値がある。そのことに読者は気づかされるはずだ。

そしてもちろん入門書としての意味がある。アル中病棟はほとんどの読者にとっては未知の場所だが、決して無縁と思ってはいけないのである。いつかは自分もそこを訪れることになるかもしれないではないか。自分からは遠い位置にあるが、しかし確実に地続きにある場所のことを本書では詳しく知ることができる。
アルコール依存症の入院は衰弱した体を回復させると同時に、患者に意識を改めさせる教育を行うためのものでもある。アルコール依存症は一生のものであり、一度なったら二度と治らない。何年も断酒生活を続けている人が、たとえ一滴でも飲んでしまえばその日までの努力は無になってしまうのだ。
そういう恐ろしい病気であるということを知るための教育プログラムが多く組まれ、時には外のAA(アルコホーリックス・アノニマス)、断酒会などの依存症患者の自助グループにも参加を促される。ここでも吾妻の観察眼は冷静で、ポエムのようなことを延々と話し始めるAAミーティングの司会者、友達がいなくて淋しいのか酒を止める気もないのに断酒会にやってくるホームレスなどの少し変なひとびとを、ユーモラスにスケッチしている。

通称ガッチャン部屋と呼ばれる保護室の存在や点滴される安定剤のことなど、治療に不可欠ながら暗いイメージで受け止められる可能性があるものについてもあっけらかんと描かれる。病院内の人間関係についても同様で、鬱屈や不満が率直にぶちまけられているのである。入院体験者だからこそ言うことができる本音の部分だ。
入院患者同士では仲間意識もあるだろうが、負の感情だって存在する。新しく入ってきた2人の患者を見た吾妻は「けっ! アル中が!!」「ろくなもんじゃない」ととっさに感じ「いやいやいや」と自分で自分につっこむのである。周囲にいるのは鏡としての自分自身だから、そりゃ屈折した感情も芽生えるよね。

入院患者たちのある者は無事に三ヶ月の満期で退院するが、いつまでも病院から出られない者もいる。問題を起こして途中退院する人あり、病院の外で飲酒して再入院してしまう人あり、彼らの人生は決して明るいものではない。
看護師の1人は言う。

「私たち看護師にとって一番うれしいのは、退院していった人達が次の週呑まずに通院してくれることです」

と。つまりそれくらい、「呑んでしまう」「行方不明になる」人間が多いということなのだろう。アルコールの魔力は強く、そこから社会復帰を果たすのは容易ではない。約束された未来など、どこにもないのである。もちろん吾妻にとっても。116ページに入院中に描いた絵が掲載されているが、線がヨレヨレだ。酒害によって大事な能力を奪われた不安は、他人が想像する以上に大きかったことだろう。
入院プログラムの一貫として、単独で外出、外泊をするというのがある。おそらくは酒を飲まずに戻ってこられるかを試す意図があるのだろう。吾妻もようやくそれを許され、我が家へと戻る。来たときは強制的にタクシーに乗せられ、妻と子に体を押さえられながら通った道を、戻る。バスに乗って、自分の足で歩いて。
その道すがら、吾妻は考える。

「この風景、素面で見る日がふたたび来るとは思わなかった」
「素面って不思議だ……」

後の台詞のコマはページの6割ほどをとって大きく描かれている。吾妻の後ろには、なんの変哲もないバス通りの風景がある。こうした大ゴマが効果的に用いられるのが『アル中病棟』のもう1つの特徴である。それは常に多くの人が描かれ、猥雑に見える病院内の景色と「外」とは見事な対比をなしている。閉鎖された病棟から外に出られた、という解放感はたしかにあるだろう。しかし同時に、不安の感情もそこには存在する。どこまでも行けて自由だが、広すぎて一人では何をしたらいいのかわからない。個人にとって世界は巨大すぎるのだ。
退院を控えた吾妻たちに看護師は言う。

「これから酒を断って生きていかなければならない皆さんにとって重要なことは、今まで心身ともに酒だけの人間だった自分から酒を抜いた時、酒の無い生活での心の空洞を何で埋めるのかを考えることです」

その空洞を埋めるものは何か。問いかけられて即答できる者は少ないはずだ。

最後の3ページはいつまでも記憶に残るものである。自宅へ向かう吾妻は、終点でバスを乗り換える。その姿が俯瞰の中にぽつんと置かれる。背中からのショットと、前方からのショットがそれぞれ1枚ずつ、ページ全体を使った大ゴマで描かれる。周囲のひとびとはみな、吾妻とは無関係に通り過ぎていく。
そして最後のコマ、唐突に視点が仰角に変わる。吾妻の姿は、世界の底に投げ落とされ、自分の落ちてきた穴を眺めている人のように見える。そして、呟くのである。

「不安だなー。大丈夫なのか? 俺……」

その姿は酒を飲むすべての私たちであり、酒を飲まない私たちであり、酒を飲むのを止めた私たちである。不安の影を背中に貼り付けたまま、私たちは永遠に、広すぎる世界を歩いていかなければいけない。
(杉江松恋)