宇佐美徹也『プロ野球 記録・奇録・きろく』(文春文庫、1987年)
パ・リーグの記録部員や報知新聞の記録記者などの経歴を持つ宇佐美は、プロ野球についてデータを駆使した記事や著書を多数発表している。本書所収のコラムで著者は、1985年、王貞治のシーズン本塁打記録(55本)にあと1本と迫った阪神・バースに対し、敬遠攻めで応じた巨人投手陣や首脳陣を痛烈に批判している。

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東京ヤクルトスワローズのウラディミール・バレンティンが、9月15日の阪神タイガース戦で、シーズン56号・57号となるホームランを相次いで打ち、王貞治らの持つ日本プロ野球記録を更新した。

記録は塗り替えられるものとはいうけれど、読売ジャイアンツ時代の王貞治が55号ホーマーを記録したのは1964年(東京オリンピック開催の年!)と、じつに49年間も破られなかったことになる。王の前の日本記録である野村克也(南海ホークス)の52本は、その前年の1963年に出たものだから、今回の記録更新までかかった時間はあまりに長い。その間に王の記録は一種“聖域”と化し、それに近づく者を阻もうとする露骨な動きさえ見られた。

この記事では、55号の日本記録がいかに生まれたかとともに、その記録に迫りながらもついに乗り越えられなかった選手たちとその実情を振り返ってみたい。

■一本足打法から二本足に戻すつもりだったシーズンでの新記録ーー王貞治(読売ジャイアンツ・1964年)
王貞治といえば「一本足打法」だが、これはプロ入り4年目の1962年のシーズン途中に、打撃コーチの荒川博の指導のもと始めたものだった。同年、王は38本のホームランを打ち、自身初の本塁打王に輝く。

ただし、王にとって一本足打法は本来、タイミングを完全に自分のものにするための過渡的なものという位置づけであり、いずれは二本足打法に戻すつもりであったという。1964年のオープン戦開始当初、一本足打法を封印したのもそのためであった。ところがこのオープン戦で王はヒットが打てず苦しむことになる。そこでコーチの荒川に相談した末、一本足打法に戻すと、とたんにホームランを量産、そのまま開幕を迎えた。

猛烈なスタートダッシュを切り、その後も着実に本塁打数を伸ばしていった王。野村の記録を抜く53号ホーマーが出たのは、9月6日の川崎球場での大洋(現・横浜DeNA)とのダブルヘッダーだった。それまで6試合は記録へのプレッシャーからか不発だったが、この日1試合目、1回裏に野村の記録と並んだのに続き、6回裏、ピッチャー・峰国安の初球を、右中間スタンドに叩きこんでの新記録達成であった。その後、9月21日の広島戦で安仁屋宗八から54号、9月23日の大洋の佐々木吉郎から55号を放ち、このシーズンを終えた。

なお、この年、巨人はチームが全体的に振るわず、3位に終わっている。ペナントレース終盤は大洋を阪神タイガースが追うかたちとなり、結局、阪神が逆転優勝を決めている。それでもMVPにはすんなり王が選ばれた。

■タイ記録を阻んだ巨人投手陣の敬遠攻めーーランディ・バース(阪神タイガース・1985年)
阪神が21年ぶりに優勝した1985年、王の記録も21年ぶりに塗り替えようという選手が現れた。その選手こそ、この年の阪神優勝の立役者のひとりで、「史上最強の助っ人外国人」と呼ばれたランディ・バースだ。

来日3年目を迎え、日本の野球に慣れた彼は、臨機応変のバッティングで、右へ左へと巧みに打ち分けた。チームが優勝した4日後の10月20日の中日戦では、小松辰雄から54号ホーマーを放ち、王の日本記録まであと1本とした。

しかし残りの巨人との2戦、10月22日の初戦こそ、先発の江川卓はバースと真っ向勝負したものの、江川降板後、そして24日の最終戦で巨人ピッチャー陣は誰も勝負しようとしなかった。最終戦では4打席すべて敬遠、それでも3打席目となる6回、やや甘くなったボール球を強引に打ち、センター前ヒットにしている。

翌日の新聞各紙には、バースの試合後のコメントとして、「悪い球を打つと日本シリーズに悪い影響が出るし、ボールを見極めた。ピート・ローズのように騒がれたが、ミスターオーの記録は飛び抜けている。それより、いいチームでプレーできたスーパー・イヤーだった」(『毎日新聞』1985年10月25日付)などがとりあげられ、彼の人格者ぶりをうかがわせた。

が、ある新聞には、バースがシーズン中、「54号までは打てるかもしれない。でも、日本の投手たちが、ガイジンの私にそれ以上は打たせてくれないだろう」と話したことがあったと記されている(『朝日新聞』1985年10月25日付)。バース自身、後年公刊された『バースの日記』のなかで、《情けない巨人軍の投手陣、一人もストライクを投げてこなかった。ガイジンだからか》と怒りをぶつけていた。

このときの巨人の監督はほかならぬ王貞治であった。王は当初、「巨人軍は昔からタイトルや記録づくりの小細工はしない。バースにもむろん正々堂々勝負する」と話していたものの、試合後には「特別な指示は出していないが、当の投手は投げにくいだろう。記録に打たれた名前を連ねたくないだろうし……」と歯切れの悪い言葉を残した(宇佐美徹也『プロ野球 記録・奇録・きろく』)。なおその後、当時の巨人の投手コーチが選手らに対し「ストライクを投げたら罰金だ」と発言していたことが伝えられている。

■四球攻めにコミッショナーが異例の声明ーータフィ・ローズ(大阪近鉄バファローズ・2001年)
バースが1歩手前で阻まれた55号ホーマーに初めて追いついたのは、2001年の大阪近鉄バファローズのタフィ・ローズである。

タイ記録が出たのは、近鉄が優勝までのマジック「3」で迎えた9月24日の西武戦(大阪ドーム)。その5回裏、ローズは西武のエース・松坂大輔からソロ本塁打を放つ。試合数でいえば王よりも5試合早い135試合目での55号ホーマーだった。試合のほうも劇的で、逆転優勝をめざし意地を見せた西武が9回表まで6ー4でリードしていたものの、近鉄はその裏、代打・北川博敏のソロで1点差にまで詰め寄り、さらには中村紀洋のサヨナラツーランで勝負を決した。この西武戦は、続く25日、北川の逆転満塁ホーマーで12年ぶりの優勝を決めたオリックス戦とともに、この年の近鉄を象徴する試合として記憶される。

55号のあと、残り5試合で日本記録更新が期待されたローズだが、2試合置いて9月30日のダイエー(現・ソフトバンク)戦では、四球攻めにあう。この日先発完投したダイエーの田之上慶三郎は、ローズへの全18球のうち2球しかストライクゾーンに投げなかった。たまりかねたローズは3打席目と4打席目にボール球に手を出したが、いずれも凡退している。試合後、彼は「(王の)記録を残したいなら、それでいい」と珍しく皮肉を口にした。

このときのダイエーの監督も王貞治である。じつはくだんの試合前、王にあいさつしたローズは、「60本を狙えよ」と声をかけられていた。だが、ダイエーのバッテリーコーチの若菜嘉晴は、監督のいないところで田之上に勝負を避けるよう指示していたという。若菜は試合後にも「彼はいずれアメリカに帰るんだ。おれたちが配慮してやらないと」「王・長嶋は野球の象徴。記録として残ってほしい」と発言、これが報道されて事態に火がついた。

翌10月1日、日本プロ野球機構(NPB)の川島廣守コミッショナー(当時)は、「フェアプレーを至上の価値とする野球の本質から外れている。そうして守られた記録は、その記録ばかりか記録を達成した選手の人格をも汚すことになる」と異例の談話を発表した。それに対し王監督は、「こちらは何とも言えない。選手には(四球を)強制できないし、打たれなさいとも言えない。心理はわかるが、勝負のあやだ」とまたしても歯切れの悪いコメントをしている。

残す10月2日と5日の試合では、ローズに対しオリックス投手陣は真っ向勝負したものの、ついにホームランは出ず、記録更新とはならなかった。

■終盤、“自壊”して記録更新ならずーーアレックス・カブレラ(西武ライオンズ・2002年)
ローズの翌年、西武ライオンズのアレックス・カブレラも55号ホーマーを記録した。このときも記録更新とはならなかったが、それまでのバースやローズのケースとはやや状況は異なる。

バースと並ぶ54号を放ったのは、9月27日、王監督のダイエー戦であった(相手投手は水田章雄)。すでに西武は21日に優勝を決めていたが、両チームは勝負に徹した。試合後、カブレラは「勝負してくれたダイエーに感謝したい。試合前に握手を求めた、偉大な王監督の前で打てたことがうれしい」とコメントしている。

シーズン終盤、投手からの内角攻めが厳しくなったこともあり、3試合不発で迎えた10月2日の近鉄戦、ついに55号に到達。8回、岡本晃から放った打球は、前年55号を出したローズの頭上を越え、スタンドに入った。試合後、カブレラは、王とローズに並ぶタイ記録に「偉大な2人と並べてうれしいよ」と語った。

タイ記録を受けて、まだ西武との最終戦を10月5日に残していた王監督は、「うちの投手にはいつも通り投げてほしい。打たれたって命を取られるわけじゃない。思い切って投げてほしい」とコメント、先のカブレラとの真っ向勝負もあいまって、前年のようなことはないだろうとファンは期待した。

が、この試合でも、相手投手の若田部健一から高めへの投球と内角攻めで2四球、さらに7回には左腕を直撃する死球を受ける。試合は4ー3でダイエーが勝利。カブレラは、投手にストライクを投げるよう指示しない王を「プロではない」と批判したが、じつはこの日カブレラと対戦した若田部も岡本克道もストライクを投げなかったわけではない。王としては、新記録を阻むためではなく、あくまで1点差での勝利を優先した結果であった。

結局、カブレラも記録更新を達成しないままシーズンを終える。西武監督の伊原春樹は終盤戦でのカブレラの打撃を「崩されたというより、自分から崩れていった」と指摘。実際、カブレラは相手投手の厳しい攻めと記録へのプレッシャーから、悪球に手を出すことも多かった。彼自身、もういちど55号のあとの残り5試合をやり直せるとしたらとの質問に、しばし考えこんだ末に「がむしゃらに振らずに我慢強く強く打てる球を待つことだ」とくやしさをにじませている(『朝日新聞』2002年10月15日付)。

こうして見てゆくと、記録更新をめざす選手の前にことごとく、王の率いるチームが立ちはだかったのは因縁というしかない。バースとローズのケースはあからさまな記録封じだが、カブレラの場合、先述したとおり事情はやや異なるにもかかわらず同じような見方をされてしまったのも、やはり監督が王であったからだろう。

記録を阻む敬遠攻めはけっして日本独特の風潮ではない。現に、2001年に米メジャーリーグの新記録となるシーズン71号ホーマーを達成したバリー・ボンズも、その直前には激しい敬遠攻めにあっている。とはいえ、メジャーの敬遠がたいてい投手個人のプライドを賭けたものなのに対し、バースやローズのケースは、コーチの指示による記録封じ……それも監督のメンツを保つだとか外国人選手に記録更新させたくないとの理由から敬遠が行なわれたという点で、多分に日本的だといえるかもしれないが。

今回のバレンティンの記録達成は、王がすでに現場を離れており、その記録の呪縛がほぼ解かれていたという点で、いままでのケースとは一線を画す。さらにもう一つ、バレンティンがこれまでのケースと大きく異なる点がある。それは、王には長嶋茂雄(「ON砲」)、バースには掛布雅之や岡田彰布(「猛虎打線」)、ローズには中村紀洋(「いてまえ打線」)、カブレラには松井稼頭央が……という具合に、チーム内にともに強い打線を形成する選手たちが存在したのに対し、バレンティンにはそれに相当するチームメイトがいないことだ。しかも記録達成時、彼の所属するヤクルトは最下位。いままでシーズン50本以上を打つホームランバッターを輩出したチームは、1986年のロッテ(4位。落合博満が50本塁打を記録)を除けばみなAクラス入りしているので、これまた異例といえる。

ともあれ、バレンティンはまだ10試合以上を残しており、本塁打数は60本以上に達する可能性も十分ある。記録がどこまで伸びるか楽しみにしたい。(近藤正高)