大ヒットでまだまだ全国公開中
「(前作の)『崖の上のポニョ』をやっている時には僕の方が先に行っているつもりだったのに、時代の方が追いついてきた。(今回の映画で描いた)関東大震災のシーンの絵コンテを書き上げた翌日に震災(東日本大震災)が起き、追いつかれたと実感した」」 (日本経済新聞「宮崎駿 時代が僕に追いついた 「風立ちぬ」公開」2013/7/27 より)


宮崎駿は、幼い頃から現実と妄想の区別がつかないという特殊な才能を持つ、生粋の直感型クリエイター(オタクとも言う)である。
おそらくは毎晩のように、夢の中で「日本アニメの神様」手塚治虫と勝手に出会って、脳内手塚治虫にあれこれ励まされていたのであろう。手塚治虫の夢の世界と自分の夢の世界がリンクしている、と彼は信じていたのだと思う。
たとえ未曾有の大震災に巻き込まれても、慌てず騒がず「空に飛行機が飛んでいるゾ〜」とグリプス戦役末期のカミーユみたいなことを言いだしかねないのである。
それどころか、大津波が迫ってくると衝動的に津波のアニメを作ってしまい、大震災が迫ると地震シーンのコンテを切ってしまうのだ。

近頃では、もしかして自分の妄想のほうに後から現実が追いついているのではないか、と「デビルマン」の飛鳥了のような恐れ(関係妄想とも言う)を自らに抱いているほどなのであった。
この、妄想が現実を凌駕している・現実が妄想を後追いしてくると感じる関係妄想こそ、実は直感と感性で創作してしまうタイプのクリエイターにのみ与えられた特殊な才能なのであるが、このような感性は現実世界を生きている一般人はもちろん、創作者ではあっても論理で作品を組み立てるタイプのクリエイターには理解しがたいものであり、それが彼の発言が誤解を多々生む原因にもなっている。

さてそんな宮崎駿は、今回の震災により起きた原発事故に対して、矛盾する己の立場に悩まされることとなった。
アニメは、言うまでもないが電気なしには作れない。
しかし原発は爆発してしまった。これはやばい。俺が昔「風の谷のナウシカ」で描いた近未来が実現してしまいそうだ。やはり俺の妄想に、現実が後から追いついてきている!

だが、それでもアニメは作りたい。アニメ製作を放棄するということは、妄想の世界に生きる彼にとっては死にも等しい。
が、アニメを作れば、かつて忌野清志郎が「おめー原発はいらねえとか言うけどエレキギターだって電気使ってるじゃねーか」と突っ込まれたのと同じことになる。
この自己矛盾に苦慮した彼は、

「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」

とまるで鵺のようなことを言いだした。
電通と日テレという大手資本のもとでスタジオジブリを切り盛りしている盟友の鈴木Pは、この震災の前後、そんな宮崎駿を見かねて「お前は右なのか左なのかいいかげんにはっきりしろ」と迫ったことだろう。
「わかってるよ。お前はミリオタで零戦大好きで、ほんとはギガント飛ばして巨神兵動かして世界を薙ぎ払いたいんだろう? だが戦時中は疎開先でいじめられてひどい目にあったし、なにしろ同僚の高畑が生粋の左翼なもんだから、そういう己の本性を左翼思想というオブラートで囲んできたんだ。だけどな、そろそろ自分が右か左かはっきり態度を決めたほうがいいんじゃないか」
こうして宮崎駿は、零戦の設計者・堀越二郎に己を仮託したアニメ「風立ちぬ」において、「宮崎駿は、右か左か?」という問いに答えを出さなければならなくなった。

彼は苦悩した。
原発事故以来、当局の監視は厳しくなっている。うかつなものを作れば、特高に狩られるかもしれない。黒字を出している間は、電通が守ってくれるだろうが……。
このところ、毎晩、夢の中で原発が爆発するシーンにうなされるようになった。

「アニメ製作は、呪われた夢だ」

長らく夢の中で自分を励ましてくれた手塚治虫もまた、「鉄腕アトム」を製作したことによって日本に「原発は夢の未来エネルギー」というイデオローグを流布してしまったことを悔いているらしい。
宮崎駿は、「風立ちぬ」のコンテを切りながら、考え続けた。
表現の自由などというものが許されなくなった、有事におけるクリエイターのあり方について。

三つの道がある。
一つは、武者小路実篤の道。転向して交差点を右に進み、大政翼賛側に回って「進め一億火の玉だ!」「お芋は大切な主食源!」とアジテーションしまくり、己のアニメ監督としての地位を確保するという選択肢だ。
とりあえずアニメは作り続けられるだろう。
だがこの道は、もし将来なんらかの理由で体制がひっくり返った時に、野菜の色紙を書く以外の仕事がなくなるという危険性を帯びている。

二つめは、小林多喜二の道。交差点を左に進み、人々が目を背けている、見たまんまの現実を、「ギギギギギ」とそのまんま描き晒して人々に心底いやがられるという孤高の選択肢だ。
この道は、今すぐただちに特高に狩られて殺されるか失脚させられて社会的に抹殺されるという危険性をはらんでいる。
つまり、ただちにアニメが作れなくなる。
どっちもイヤだった。

三つめはーこれこそが、そもそもの彼の本質なのであるがー「現実なんか最初からどうでもいい。興味が無い。俺はただ、美しいアニメを作りたいだけだ」と芸術至上主義を宣言して、現実主義すなわち右からも左からも距離を置いて妄想の世界(アニメの世界)にひきこもるという選択肢である。
すなわち、谷崎潤一郎の道だ。
電通がスポンサーでも、雇い主が日テレでも、自分が製作したアニメがどのように使われようとも、ジブリがたとえ原発の電気を使ってアニメを製作しようとも、そんなことは一切どうでもいいのである。
そもそも手塚治虫が「鉄腕アトム」を作ったのは、ただ純粋に「鉄腕アトム」を作りたかったからではないか。

それのなにがいかんねん!

こうして「風立ちぬ」の堀越二郎は、「美しい飛行機」を作るという芸術至上主義を邁進するキャラクターとして描かれることになった。
堀越二郎は、要は宮崎駿本人なのだから、その声は職業声優ではなく、宮崎駿の魂の息子とも言うべき庵野秀明でなければならなかったのだ。庵野秀明もまたおそらく、自ら監督として製作していたエヴァンゲリオンが阪神大震災とオウム事件を引き起こしたのではないかという関係妄想から旧エヴァの世界を破綻させ、その後結婚してリア充になり新エヴァを明るい話として作り直そうとしたが、製作途中で原発が爆発したので「やっぱり俺がエヴァを作ったら地震が起こるんだ」とまたしても打ちひしがれて、そして「Q」でまたまた「ダメだったよカヲルくん。今更地下に降りて制御棒を抜いても一度爆発したものは元には戻らない」とやらかした。

結局のところ、「現実と妄想、どっちが大事なんだ」というクリエイター固有の問題に、宮崎駿は「そんなもん、妄想に決まっとる!」 と結論を出したのである。
だいたい、現実などというものは、彼の妄想を後追いしているにすぎないではないか。
だからこそ「風立ちぬ」は、韓国では右だと叩かれ、日本では左だと叩かれるというまるっきり鵺そのものの作品になったのであるが、宮崎駿は右でも左でもなく俺は現実なんかもうどうでもいいんだと脱現実宣言しているわけだから、どちらもこの作品の本質をわかってない……というか、この作品はそもそも現実の世界だけを生きている一般人には絶対にわからない、現実と妄想の二つの世界を生きているというごくごく限られた種類の人間だけが抱えている問題を描き晒しているわけなのだ。

しかし、「右も左も知らん。美しいアニメさえ作れればええんや」と居直って芸術至上主義を宣言しても、なにか心細い……ほんとうにそれでいいのか、という疑問が心から消えることはない。
「地獄変」を書いた芥川龍之介も、結局は自身が標榜する芸術至上主義に限界を感じ、私小説的な作風に転向しようとした途上で、「ぼんやりとした不安」のために死んでしまった。
人間である以上は、現実に足場がなければ、妄想の世界に生きることすらできないのだ。

そこで宮崎駿が、自らの芸術至上主義を支えてくれるものとして「再発見」したものが、70年代に安保闘争に敗北した若者たちが現実社会からの逃避先・ひきこもり先として見出した「恋愛」という閉じた二者関係なのだった。
70年代、政治の季節が終わり、社会から撤退した若者たちは、恋愛というシェルターにひきこもることで自我崩壊を免れ得た(このあたりの過程は、「同棲時代」やバブル期の作品ではあるが「ノルウェイの森」に描かれていると思われる)。

宮崎駿が、妄想の世界を生きる堀越二郎を現実側から支える要素として、堀辰雄の恋愛物語を導入したのは、ヒロインに「あなた、生きて」と言わせて「うん、うん」と庵野秀明つまり自分にうなずかせるためである。「あなた、生きて」というこの言葉の根拠は実は二人が愛し合っているという一点以外にはなにもなく、ヒロインは堀越二郎の零戦製作の物語とはまったく関わっていないのである。堀越二郎と堀辰雄の物語が作中で融合しておらずバラバラだと観客が感じるのは当然のことで、堀辰雄の恋愛物語は芸術至上主義に突っ走ってラストで「一機も戻ってきませんでした」とつぶやく堀越二郎(を名乗る庵野秀明であり宮崎駿)を自決割腹させぬためにのみ必要とされているのである。
アニメを作るために現実に背を向けた自分はある意味もしかしたら戦犯かもしれないが、愛する奥さんが「生きて」と言ってるんだから生きねばならないのだ。

中二病をこじらせている太宰治が生きていたら、「家庭の幸福は諸悪の本(もと)」と言いだしそうな事態であるが、太宰治もそんなことばかり言っているからぼんやりとした不安に取り付かれて死んでしまったわけであり、「風立ちぬ」においては「アニメを作るためにはなにがなんでも生きなければならない。たとえ、喀血して寝込んでいる嫁の横で煙草を吸おうとも」という宮崎駿のアニメ製作への執念もさることながら、実際こうして平和ボケの時代を強制終了させられて「終わらない非日常」に放り込まれたクリエイターに残された道は、70年代的な意味での恋愛というシェルターにひきこもって芸術至上主義に没入する生き方しかないのではないだろうか、と思わされるのだった。

(本田透)
ほんだ・とおる
ライター/小説家。『電波男』『ろくでなし三国志』『ライトノベルの楽しい書き方』』シリーズなど著書多数。

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