『風立ちぬ スタジオジブリ絵コンテ全集19』徳間書店

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「風立ちぬ」は、鈴木敏夫プロデューサーが「宮崎駿が言い残したいことを全部詰めた映画」と言うだけはあって、見どころが盛りだくさん。
1930年代、飛行機に魅せられた天才設計者・堀越二郎が、美しい飛行機を作ることだけにすべてを注いでいく姿を幹に、ファムファタル菜穂子との恋や、夢を追う者たちの友情、当時の世相などの多くの枝葉を伸ばしながら、空へと真っ直ぐに立つ木のような映画だ。
一場面、一場面の描写が濃密で微細なので、観客から実に様々な評論や感想が生まれている。中でも「タバコ」は話題のひとつで、エキレビでも『賛否両論、タバコシーンから「風立ちぬ」を考察する』にアクセスが集中。食事シーンがそそられることで定評のある宮崎アニメが、タバコシーンでも面目躍如。そそる喫煙シーンを描いたことで、よくも悪くも物議を醸している。

天才の苦悩、夢見ること、愛、戦争、飛行機の絵以上に心惹かれる生きたエンジン音をはじめとする、人の声を使ったというSE、庵野秀明の声優起用などなど、思いを喚起されることはたくさんあるが、ここではあえて、やっぱりそそる食べ物について書きたい。

例えば、主人公・堀越二郎(声・庵野秀明)が食堂(絵コンテだと「安めし屋」とある)で鯖を食べているとき、同席している人物(絵コンテだと「片山」とある)が「卵つけて」と店員(絵コンテだと「お君」とある)に頼む。そして聞こえる、ムダなほどリアルなお椀と箸がぶつかりあって卵を混ぜる澄んだ音。二郎が鯖の骨に魅入られている間、こっちは、ああ、卵を白いご飯にかけて食べて〜〜っと思ってしまった。

それから、なんといってもカストルプのクレソンサラダ。二郎がファムファタル・菜穂子と再会する運命の場所・軽井沢に滞在する謎の男・カストルプが好むメニューだ。
「風立ちぬ」の原作者・堀辰雄の「エトランジェ」という小説には、主人公が訪れた軽井澤ホテルで出会う人の描写に、「それから五番目には寫眞で見るバアナアド・ショオによく似た元氣のよいイギリスの老紳士、――彼のテエブルにはいつも芹を山盛りにした皿が出てゐる。この先生はその芹と一しよにして何でも食べてしまふのである」というものがある(クレソンは日本名だと芹になるようです)。
それを若干参考にしているのか、カストルプはサラダボールに山盛りのクレソンを小皿にとりわけて、シャキシャキシャキ シャクシャクシャク(絵コンテにこう書いてある)と食べる。クレソンの清冽な食感が脳内に浮かんできて、ひととき猛暑を忘れさせてくれた(映画館はエアコン効いてるけど)。

クレソンというとステーキの付け合せという印象もあるものの、同じ付け合わせ野菜の人参やポテトの家来感に比べ、妙な傭兵感を醸している。
ちょうど先日、人気ドラマ「あまちゃん」にも、ウニのパスタに、クレソンとバケットというセリフが出てきて(それを語るのは、尾美としのり)、やっぱりクレソンの存在感が気にかかった。

軽井沢の名物料理らしいが、そこまで行かなくても、クレソンサラダが食べたい! 

そんなときには、伊丹十三(余談だが「あまちゃん」の夏ばっぱ役の宮本信子の夫である)のエッセイ「女たちよ!」を参照しよう。
伊丹は「サラダというものは、第一に野趣のあるものでなければならない」と書いていて、その例として「サラダにおける本格」という項で、クレソンサラダの作り方をあげている。
作り方といっても、フレッシュなクレソンさえあればよくて、引き立て役としてドレッシングにこだわればよいのである。伊丹流のドレッシングがシンプルだがものすごく美味そうで、ゴーヤじゃなくてクレソン栽培したくなってしまった。

クレソンには文学の香りがあるのか、昭和を代表する脚本家のひとり向田邦子が監修、料理製作した本「向田邦子の手料理」には「両手いっぱいのクレソン炒飯」というものが掲載されている。これもまた具がクレソンのみ。クレソンだけなのにひとりご飯がわびしく思えない。クレソンってたくましい。ちょっと小腹がすいたときに作ってみたい。

映画では、クレソンがこんなにも気になる存在として描かれたのは、「失楽園」(97年 森田芳光監督)以来ではないだろうか。
大ベストセラーとなった渡辺淳一の不倫小説を原作にした映画で、主人公の男女が心中する前に食べる鴨とクレソンの小鍋が「失楽園鍋」として話題になった。
こちらは、合わせたワインがシャトーマルゴーという派手さで、カストルプの食事とは真逆な印象だが、原作を繰ると、なんと、この料理を食べる地が軽井沢! しかも男が「風立ちぬ、いざ生きめやも」を思い返す場面がある。男は「この詠嘆の言葉のなかには、意味とは裏腹に、生気というよりは静かな諦観というか、生も死も見据えた成熟の秋の気配がある」という考えに至るのだ。
人生を愛と性で一気に燃焼し尽くす小説、簡単に言えば心中ものの「失楽園」にこれっぽちも興味がなかったが、この一文は、宮崎駿の「風立ちぬ」を語るにはなんだかふさわしいように思えてきた。

クレソンに誘われ、思いがけず「失楽園」の門をくぐり抜けたことで、俄然、宮崎駿の「風立ちぬ」のちょっとベタにエロな描写が気になってきた。
クレソンには何か妄想力を高める魔術的なものがあるようで、そそる食欲から、そそる性欲シーンへと思いが飛んでいく。
クレソン話の続きは後述することにして、「風立ちぬ」を見ていてちょっと浮かんだベタなエロシーンをあげてみる。

二郎の菜穂子が地震のために列車から降りて避難するシーン。
菜穂子の侍女の絹が足をくじくと、二郎は計算尺を接ぎ木にする。そのときのセリフは、
二郎「力をぬいて。さ……」
絹「ア……」
セリフだけ抜き出すと妄想が膨らみませんか。

それから、二郎と菜穂子が再会、改めて名乗り合うシーン。二郎が森の一本道を歩いていくと、突き当たりに泉があって、そこに菜穂子が立っている。
めちゃくちゃベタな隠喩な気がしませんか。

そして、新婚初夜。「来て……」と布団をひく菜穂子の胸が妙に膨らんで見える。
寝てたらふつう胸って横に流れちゃうのに。

冒頭の少年二郎が飛行機に乗って飛翔して落下するのも、フロイト的には性欲の表れか。
宮崎駿、72歳だけどエロい。いや、72歳だからこそのねちっこさなのか。

こういうところは、人間だもの的微笑ましさを感じもするが、ヒロイン菜穂子の「一番きれいな時」問題は、中島美嘉の歌にそういうのあったなあ、などとぼんやり思い出しているだけでは済まされない感じに、世の中なっているようで。

念のため説明すると、結核に冒された菜穂子が、しばらく二郎と共に暮すものの、病の進行を感じてそっと去っていく。この描き方が、喫煙シーンに次いで賛否両論巻き起こしているのだ。

女は「きれい」であることが重要で、男は仕事が優先で……というように受け取れるため、菜穂子が男性にとって都合よい存在に過ぎないと感じる人も少なくないようだ。これに関して、女の私は、そんなに目くじら立てなくてもよくないですか〜という気がしている。というのはーー。

菜穂子の去り際は、性別関係なく人間の生き方の理想を描いているのではないかと思うから。野生の動物が死を悟ると誰にも言わずに去っていく、そんな孤高の生に見えるのだ。
二郎の元から菜穂子がサナトリウムへと帰るとき、グレーのコートをきちっと閉じてポケットに両手を入れて毅然と去っていく姿は、男の犠牲になった女には思えない。好きに生きてる野生の猫のようだった。
だって、菜穂子、やりたいことしかしてない。忙しい二郎に手を握ってもらったり、結核移るのも気にせずキスしてもらったり、庭から部屋に侵入するルパンごっこか、みたいなことをしてもらったり、女として全然ハッピーである。

そこで再びクレソンだ。
菜穂子は二郎にとってのクレソンだったのだと思う。名前も菜だしさ。
クレソンは、美しい水の中で育ち、抗菌作用を発揮する植物。それに比べて人間は肉のかたまりだ。夢や野望という、時に人を幸福にし、時には他者を損なうこともある、そんな美味さと気持ち悪さがないまぜの生臭いものを抱えて生きている。それが高潔な良薬のようなものに出会ったことで純化させられるのだ。

二郎は、美しい飛行機をつくるというその一点のみに突き動かされて、ある部分で戦争に加担してしまうことにもなるが、ただ生きたいように生きた菜穂子の存在によって救済された。

言ってみれば、二郎と菜穂子は、生きたいように生きる者同士。ただ、菜穂子は病によって志半ばで倒れてしまったというだけだ。
二郎と菜穂子が「失楽園」のように、死に至る生の称揚よろしく、自分たちの最も美しい行いの凍結を求めて死へと向かったら、それはそれですばらしい物語であるが、宮崎駿の「風立ちぬ」は、生き残った者の物語になっている。
クレソンのないステーキはどうするのか? ってことだ。

「生きねば」ならないと映画は言う。
 なぜ? どうやって?
 映画の中にヒントがある。
前のめりに倒れた人間のように、翼を力なく地面につけてひしゃげた飛行機の残骸の前に立つ二郎の背中を見ていると、生きることは、目の前から消えていくものを記憶することだと思えてくる。
今、生きてる者は、生きたくても生きられなかった、志しなかばで潰えていった者たちの思いや記憶も背負って生きねばならないのだ。
映画の中にそっと挿入される、震災のあとの川面に浮かぶ卒塔婆の群れ、飛行機の残骸など死の気配が見る者の海馬を触ってくる。殊に、クレソン大好きのカストルプが、「(軽井沢という魔の山では)チャイナトセンソウシテルワスレル マンシュウコクツクッタワスレル コクサイレンメイツクッタワスレル」と言う皮肉。日本のたどってきた時間を忘れるなと、チクリと刺された気がする。

生き残った者とは、今、生きている者すべてである。映画を見ている人たち全員である。特に、二郎のように選ばれた者(生き残った者の)は、ただひたすらに創り続けないといけない。その行為が美しいものとして昇華するように。「風立ちぬ」に満ちたなんとも苦しい懊悩が、全身を痺れさせる。
ちなみにクレソンは、喘息や結核に効くとも言われているそうなので、菜穂子もクレソンサラダを食べたら良かったのにね。
(木俣冬)

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