ブラック大学の内部からみた現状
大学にいたころに筑波大なども同じような状況だと聞いた。どうあっても逃げられないという感覚があるからだろう。
学生は学位を人質に取られている。教員でも自分の将来を人質に取られている。
そこに過酷な労働環境とプレッシャーが追い打ちをかける。この世はすべてが研究成果で測られる世界だと。
実際にそういうことはない。それはあくまで一部の価値観である。俺は社会に出て、そうではないと気付くことができた。
大学の中ででき上がった(アカデミックに)優秀な学生は今度は教祖となり同じような行動を繰り返す。
そうするとどんどん似たような研究室になっていく。
当然今はまともな研究室のほうが多い。あくまで一部だ。
だが、俺は数十年後には日本にブラック研究室しかなくなっていると思う。
このような再生産が日常的に行われているためだ。しかもたちが悪いことに人より働く量が多いから成果も出て、優秀な人間だと思われる。
大学の教員は研究成果がすべてだ。教育能力について問われることはないし、「大学は自ら学ぶところ」という体の良いいいわけまである。
ブラック研究室にいるという自覚のある学生は速くそこから脱出したほうがいい。
教員は「博士にならないと十分じゃない」だとか「今ではむしろ博士のほうが就職がいい」だとか言ってくるだろうが、
命をはかりにまでかけて、とる価値のあるものなのかもう一度よく考えろ。
仮に俺に子供ができたとしたら、果たして理系の大学に進ませるだろうか。死んでしまうかもしれないリスクを冒してまで。
当然、研究の楽しさもある程度知っているつもりだ。だがそれとはたしてトレードオフしてもいいことだろうか?
俺には分からない。
そしておそらく、ブラック研究室の教員はこの文章を読んで鼻で笑うだろう。
●追記 7・7
元増田です。
ここに書いたことには特定されない程度のフェイクを入れてあるが核となるような労働環境についてはうそを書いていない。
こういう事例を見たことがないというのはよほど幸せな環境にいたのだろう。これは実在する研究室群の話だ。
ブラック研究室ばかりになってしまうというのはとある研究室の門下がブラック研究室を生み出し、さらにそれがネズミ算的に増えているのを見たためだ。
この話では実験系を念頭に置いている。理論系でも似たような例はあるのかもしれないが、残念ながらそこには詳しくない。
理不尽さがないように攻めてくる研究室もある。トラックバックにガチガチの正しさだけで攻めるのが一番つらいと書いてあったが、まさにその通りだ。
そういう研究室も含めると数はもっと多くなる。おそらく教員は教育というものを何かはき違えているとしか思えない。
個人的には好きでやっている学生は好きな時間だけやればいいと思う。それを否定することはできない。
しかし、全員が好きであり続けることができるのだろうか?体を壊しても好きであり続けられるのか?
全員が研究を好きであるべきでそれに人生をかけるべきだという考え方を他人に押し付けるのが正しいのかどうか。そしてそういうことを正義として絶対視することはどうなのか。
そういうことをブラック研究室の人たちによく考えてほしいと思う。何かに専念することは美しいと思うが、それは他人に強制されるものではないと思う。
画像:研究室(4)『flickr from YAHOO!』
http://www.flickr.com/photos/64541210@N00/3097830854/
転載元:こちらは匿名投稿『はてな匿名ダイアリー』からの転載です。
転載記事は2013年07月30日時点のものです。