『美術手帖』6月号は、初音ミク特集。初音ミクを表現するツールとして、また表現活動連鎖の装置として、数多くのインタビューが載っています。一番の見所はmebaeの描く巨大初音ミクの屏風みたいなイラスト。グラフィグ初音ミクもついています。

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「僕が思うのは、あれは日本のお家芸ですね。つまり、人形浄瑠璃にしても、辻村寿三郎さんの人形舞にしてもそうですけれども、人間が生で演ずるよりもすごいものがあるんですよね」
冨田勲はこう語りました。
なにのことか?
初音ミクのことです。

『美術手帖』6月号は初音ミク特集です。
冨田勲は、宮沢賢治を題材にした「イーハトーヴ交響曲」で、300人のオーケストラの中にプリマとして初音ミクを登場させました。
なぜ初音ミクなのか?
「例えば『風の又三郎』では、休みが終わって学校に行くと見慣れない子どもがいて、その子は台風が去るといなくなる。子どもたちも、よそ者ではあるけれど、どこか尊敬の目を持ってそれを見ている。そういう不思議さのある役には、初音ミクがどうしてもほしかった」
「初音ミクのキャラクターそのものがバーチャルで、ふっと現れてふっといなくなる、みたいなものだとわかった」
ミクは、風の又三郎だった。

今回の『美術手帖』の特集では大きく2つ点、解説されています。
表現するためのツールとしての初音ミク。
表現活動が活性化していく装置としての初音ミク。

初音ミクそのものが美術、とはどこにも書いていません。
例えば、supercellのryoは「人が歌った名盤が100点とすると、ボーカロイドは相当がんばっても20点しか取れないという感覚を持っています」と語ります。
では、なぜ初音ミクを人はツールとして使うのか。

「ニコニコ動画を初めとする投稿サイトコミュニティーの中なら、このソフトひとつですごく楽しめる。初音ミクはその輪に入って遊ぶための、参加チケットみたいなものかもしれません」
「ある曲をアップすると、その曲を聞いた人がそこからヒントを得て、さらに進化させた作品をつくることができる」(ryo)

気軽に触れることができる、ツールとしての初音ミク。
通常歌い手のことを考えないと曲は作れませんが、ミクは存在しない少女です。

「完成した曲を歌う「誰か」が存在しないので、自分の好きなように歌詞や曲を書けるという点です。そこに人格がないのが、むしろいい(ピノキオP)」

ではキャラクターはどうなのか?
初音ミクには設定がありません。
あるのは、ツインテールで、緑青の髪で、ニーソックスで……という記号。
この記号をいれると、なんでも初音ミクになる。

表紙と折込にある、イラストレーターのmebaeのイラストが実に面白いんです。
表紙はまるで初音ミク曼荼羅です。
巨大イラストにいたっては、屏風そのもの。日本画の技術を取り入れた、セルアニメ塗り絵です。
そこに記号としての初音ミク中心にボーカロイド達がぎゅうぎゅうに詰め込まれています。

これがなにか? と言われても非常に困惑します。
そもそも、僕の考えている「初音ミク」と、人の考えている「初音ミク」がイコールではないからです。

村上隆とクリプトン伊藤博之は対談でこう語ります。
村上「初音ミクが何者なのか、誰もはっきりは答えられないんじゃないですか?」
伊藤「概念みたいなものだって説明することが多いのですが、つくった本人もわからないんです」

何かであり、何者でもない。
日本文化の象徴のようであり、単なる駄菓子でもある。
人間以上の表現にもなりうるし、ちょっと遊ぶだけでも楽しめる。

じゃあなんなのか?という思想や問いかけなんてなんのその。
インターネットの海を、初音ミクは瞬く間に飛び回ります。

今回の特集では、数多くのボカロP、クリプトンの開発者など、多くの「初音ミク」「ボーカロイド」に関わる人へのインタビューを集め、客観的に、冷静に初音ミク現象を受け止めています。
もう美術と音楽の面で、初音ミクという存在から良い物が産まれ、広がり続けて次のステップに以降している最中。
表現技法のあり方として、無視できない存在なんです。

美術本としても面白いんですが、やっぱりおすすめしたいのはミクファン。
ぎゅっ!とミク、詰まってます。
ところでぼくは鏡音リン・レンが好きなんですが、そのへんは語られてませんでした。
なのでぼくは、夏コミでリンちゃんの薄い本を漁ろうと思います。

『美術手帖』2013年6月号

(たまごまご)