「消された県」を知っていますか?




みなさんが住んでいる「都道府県」はどこですか? 歴史の授業で習ったとおり、明治時代に「廃藩置県」が行われて、初めて「県」ができました。しかし、実は当時できた県は、今の県とはずいぶん違っています。

現在は「1都1道2府43県」と覚えたように、「県は43県」ですが、廃藩置県の行われた1871年(明治4年)には「72県」(+3府、北海道と沖縄を除く)もあったのです。あまり知られていない「消えてしまった県」の話をご紹介します。



■北海道は3つの県だった!



北海道は今では「北海道」と1つですが、明治すぐ、1871年(明治4年)の廃藩置県の段階では、「北海道開拓使」というものが置かれました。1882年(明治5年)には「廃藩置県」ならぬ「廃使置県」が行われて、「札幌県」「根室県」「函館県」になりました(ほかに北海道事業管理局という局があった)。



ところが1886年には県が廃止され「北海道庁設置」が行われるのです。



■「二本松県」「若松県」「磐前県」からできた「福島県」



現在の福島県の西白河、伊達、信夫、安達、安積、岩瀬が「二本松県」、耶麻、河沼、大沼、北会津、南会津が「若松県」となりました。



この2つの県に、「磐前県」になっていた相馬、双葉、石城、田村、東白川が一緒になって現在の「福島県」になっています。



■武蔵国から「入間県」!?



江戸時代の「武蔵国」(むさしのくに)の北部、現在の埼玉県のほとんどがまず「入間県」に。その後、「群馬県」と合併して「熊谷県」に! その後、熊谷県がバラされて、埼玉県と群馬県に分割。入間県だった場所は埼玉県になりました。



■すごく広い石川県だった!



1871年(明治4年)の段階で、新川県、七尾県、金沢県、福井県、敦賀県がありました。新川県は現在の富山の一部。七尾県は現在の富山県の一部と石川県の一部を合わせたもの。金沢県は現在の石川県の一部(加賀国と合致)。福井県と敦賀県を合わせると現在の福井県になります。



1876年(明治9年)には、この5つの県が合わさった領域が1つの石川県に再編されました。つまり、現在の富山県、石川県、福井県を合わせた領域が「石川県」だったのです(ただしこのとき若狭地方が滋賀県に編入)。



「いくらなんでも……」という反対の声が上がり、現在の県の形に落ち着きました。



■奈良県危うし! 消滅の危機があった!



奈良県はなくなりそうでした。1871年(明治4年)には、それまでの「大和国」(やまとのくに)は「奈良県」になりました。しかし、1876年(明治9年)には堺県(現在の堺市、泉北、河内郡に相当)に併合されてしまいました。



あやうく「大阪府」にも併合されるところでしたが、堺県は大阪府に編入され、「奈良県」は現在の形で分かれて設置されることになりました。



■中国地方には「浜田県」「北条県」があった!



1871年(明治4年)には、「石見国」(いわみのくに)に当たる「浜田県」、「美作国」(みまさかのくに)に当たる「北条県」が置かれました。1876年(明治9年)に、浜田県が島根県に、北条県が岡山県に併合されて2つともなくなってしまいました。



■えっ!? 徳島と淡路島と香川が一緒?



1871年(明治4年)に設置された「名東県」(みょうどうけん)。現在の徳島県と淡路島を合わせた県です。淡路島は現在では対岸の兵庫県に入っていますが、当時は四国側の仲間でした。なぜかというと、旧徳島藩が淡路島も領有していたからです。



この名東県には「香川県」も編入されたことがあります。1873年(明治6年)には香川県も含めて名東県になりました。その後、香川が今度は「愛媛県」に、淡路島が「兵庫県」に編入、徳島がなんと「高知県」に編入されるという大改編。



1876年(明治9年)には、四国地方に「愛媛県」と「高知県」の2国(2県)しかない状態でした。「いくらなんでも……」という反対の声が挙がり、現在の4県になりました。



■九州には最初11県ありました!



1871年(明治4年)当時には九州にはなんと11県ありました。大分県、小倉県、福岡県、三潴県(みずまけん)、伊万里県(いまりけん)、長崎県、熊本県、八代県(やつしろけん)、美々津県(みみつけん)、都城県(みやこのじょうけん)、鹿児島県です。



それが1876年(明治9年)には大分県、福岡県、長崎県、熊本県、鹿児島県の5つに再編されました。現在の佐賀県は長崎県、宮崎県は鹿児島県に含まれていました。ちなみに、「沖縄県」が置かれたのは1879年(明治12年)のことです。



■「廃藩置県」のすったもんだ! 「減らして」また「増やす」



明治政府は、1871年(明治4年)の廃藩置県でまず藩を「県」に変更しましたが、この時点では名称が変更されただけで、県境も曖昧なら、藩には飛び地の領地があったりして「ここはどうするんだ」と問題山積でした。



日本全国に「藩」は300以上ありましたから、これを全部「県」とするなら最初は「300県」以上あったことになります。ただ、これは統治単位としてはいくらなんでも多すぎます。



明治政府はその切り分け、再編、行政区分の確定を行います。結果、北海道と沖縄県を除いて72県になりました。



その後、細かい再編が行われ、1876年(明治9年)の大改編で35県に。ところがこの35県には「減らしすぎだろ」という反対意見が多く、また「○○県復活しろ!」という運動が各地で起こりました。



1888年(明治21年)から1890年(明治23年)にかけての府県制の確立によって、現在の43県に落ち着きました(これ以降ほぼ変更はありません)。



ちなみに「府」は最初からずっと「東京府」「京都府」「大阪府」の3つで、第二次世界大戦中に東京府が東京都になったため、現在の2府になりました。



江戸時代に使っていた行政区分を全くやり直すという作業は並大抵なことではなかったでしょう。今でも「市の合併」なんて作業にはかなりの労力を要するものです。





(高橋モータース@dcp)