400ページ以上にも及ぶ内容は読み応え満点。米メディア産業の現状がよくわかる「のめり込ませる技術 誰が物語を操るのか」フィルムアート社

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おそらく人類の誕生と同時に発生したと思われる「物語」。かつて村長や吟遊詩人などの「送り手」によって伝承されてきた物語は、マスメディアの発達と共に大衆化し、新聞・小説・放送・映画と、さまざまな形に姿を変えてきました。

そしてインターネットの普及と共に、メディアの融合が進み、物語の構造自体が変化しつつあります。ウェブで世界中とつながった物語の「受け手」は、自ら「送り手」となって、さまざまな物語を発信するようになりました。ホームページやソーシャルメディアでの情報共有はその一例。日本で言うなら同人誌などの二次創作物。送り手と受け手の境界は、どんどん曖昧になっています。

一方で優れた物語ほど、人を捉えて放さない魅力があります。そのため古くから物語は、ある種の「いかがわしさ」を備えたものとして認識されてきました。ドン・キホーテが騎士道物語に熱中するあまり、現実と虚構の区別がつかなくなり、自らを騎士と思い込んで冒険の旅に出発した……というくだりは、当時の認識を象徴しています。

この「現実と虚構の区別がつかなくなる」という批判的言説は、ふとしたきっかけで今も社会の表舞台に顔を出してきますよね。暴力ゲーム問題しかり、オンラインゲームの依存症問題しかり。他の表現様式にはない、物語ならではの特徴でしょう。

そして忘れてはならないのが、現代の物語は大衆によって消費される「商品」であること。そしてその市場がインターネットの普及でガタガタになっているということです。多くのエンタメ産業が右肩下がりの中で、企業は次の可能性を模索しています。

つまりポイントは3点。第一に「今後もテクノロジーの発展と共に、新しい物語のスタイルが生まれてくるはずだ」ということ。第二に「テクノロジーの発展で、いつか現実と虚構の区別がつかなくなるような、リアルな物語体験が可能になるかもしれない」ということ。そして第三に「それまで企業はどうやって生き延びていくか」ということ。そうなんです、現代の物語は資本主義の申し子ですから、はい。

本書『のめりこませる技術 誰が物語を操るのか』は、この三題噺をテーマに、アメリカ・メディア産業の現状や、企業の戦略を描いたノンフィクション。全13章にわたって、ゲーム、映画、広告、ソーシャルメディア、はたまた最新の脳医学研究まで、舞台裏が生き生きと描き出されています。著者は元「ワイアード」の編集者&ライターも務めたフランク・ローズ氏。現状を俯瞰するには最適でしょう。

なんといっても情報量が桁外れです。映画業界では「アバター」のジェームズ・キャメロン監督。ゲーム業界では「メタルギアソリッド」の小島秀夫氏、「シムズ」のウィル・ライト氏、「フェイブル」のピーター・モリニュー氏。ボードゲーム「バトルテック」の生みの親で、代替現実ゲームという新ジャンルを作り出したジョーダン・ワイズマン氏。テレビ業界では「ロスト」の仕掛け人として知られるJ.J.エイブラムズ氏。IT業界ではTwitterを作り出したエヴァン・ウィリアム氏。これ以外にも、さまざまなクリエイターや業界人が登場します。いやー、豪華すぎて目がくらみそうです。

ただ、ちょっと筆者の筆が縦横無尽に走りすぎているきらいがあって、混乱気味な点がなきにしもあらず(まあ、それが現状の混沌さを表しているとも言えますが)。日本の新書なら、これだけで5-6冊くらいは出版できるんじゃないか。それくらいネタが満載の一冊です。僕なりに捉えたポイントをまるっとまとめてみました。

本書のキーワードは「参加性」です。ネット時代において、物語の送り手と受け手が融合する流れは止められない。だったら、送り手から受け手の一方通行をやめて、いかに受け手を巻き込み、参加させられるかが勝負。ゲームやゲーム的手法も、参加性の高い物語メディアとして位置づけられています。

もっとも、受け手の参加性を高めると、炎上の恐れがあるのも事実。日本と違い、英語圏で炎上したら、文字通り世界中で火だるまです。映画「ハリー・ポッター」のファンと、ワーナー・ブラザーズの間で開戦した「ポッター戦争」はその一例。本書ではそうした「失敗例」についても、客観的な視点から記述されており、参考になるでしょう。

その上で本書では、受け手に自由に発信してもらうに、どっぷりと浸れる世界観の必要性が示唆されます。繰り返し引用されるのが映画「スター・ウォーズ」ユニバース。旧三部作と新三部作の間で、「スター・ウォーズ」ユニバースは大きく拡張され、詳細な世界観が構築されました。小説・ゲーム・CGアニメなど、映画の狭間をうめる様々なエピソードが発表され、その世界観は今もなお拡大しています。これがルーカス・フィルムの大きな収益源となっているのは、ご承知の通り。つまり同社は映画ビジネスではなく、「世界観ビジネス」を行っているともいえるわけです。

ところが意外なことに、ここまで綿密に世界観を構築し、メディアミックスやトランスメディアが行われている例は、アメリカではあんまりないんですよね。同じように映画三部作のエピソードをゲームやアニメで補完し、壮大な世界観を作り上げようとした「マトリックス」は、いまいち残念な結果に。同様に世界観が徹底的に作り込まれた映画「アバター」も、尻つぼみな結果に終わっています。ディズニー帝国も例外ではなく、個々の物語はあっても、ディズニー全体の統一された世界観は、それほど明確ではありません。ルーカス・フィルム買収でノウハウの移転が期待されます。

かたや日本ではガンダムを筆頭に、インターネット以前からメディアミックスが大流行。ポケモンの北米での大成功も、ゲーム・マンガ・アニメ・カードゲームのメディアミックス展開なしには語れません。これがアメリカのキッズにとって、非常に新鮮だったんですよ。本書でも「同じ話を、一度に複数のメディアで語ることができる。これが日本のメディアミックスの基本的な考え方だ」と、あえて言及されるほど。こうした商慣行がつい最近まで、アメリカでは存在しなかったんですって。うーん、勉強になります。

もう一つ日米の違いとして触れられているのが、著作権のあり方です。一見するとおおらかに見えるアメリカの二次創作文化も、商業利用やポルノは厳禁。コミケみたいな巨大同人市場は存在自体がレッドカードです。一方で著者は、日本では物語の送り手と受け手に「暗黙の了解」があり、メディアミックスの背景となっていると分析します。まあ、隣の芝生は青く見えるものだと思いますが、日本の方が「世界観ビジネス」に対して一日の長があるのは確かでしょう。

でもって話は唐突に冒頭に戻りますが、テクノロジーの発達で「現実と虚構の区別がつかなくなるような物語体験ができるようになったら、どうするか」。ンなもん、諸手を挙げて大歓迎に決まってるじゃないですか! むしろ世界観にドップリはまれることこそが、物語の本質的な魅力だと言えるでしょう。なんたって日本は「たまごっち」を生み出した、世界でもユニークなお国柄。世界観と戯れる遊びなんて、アラフォー世代には「ビックリマンチョコ」のシール集めで体験済みです。現実と虚構の狭間で遊ぶための免疫はばっちり。世界のどこにも負けない先進国ではないでしょうか。

というわけで、米メディア産業の現状と共に、はからずも日本の特徴を浮き彫りにさせてくれる本書。メディア産業に従事する人なら、まずは抑えておきたい教養書ではないでしょうか。もちろんゲーマーにも興味深い内容であることは間違いなし。個人的には次世代の物語体験を生み出せるのは日本人、そんな思いを強くしました。クリエイターの皆様におかれましては、本書を適切なネタ本にしつつ、あっと驚くクリエーションを切に願う次第です、はい。
(小野憲史)