『ブラック・ジャック創作秘話2 〜手塚治虫の仕事場から〜』(宮崎克原作・吉本浩二マンガ)
2011年7月に刊行された第1弾に続く単行本第2弾。本書では「別冊少年チャンピオン」2012年7月号〜10月号に掲載された4話が収録されている。巻頭には手塚の『ブラック・ジャック』連載当時の「週刊少年チャンピオン」の表紙写真が並び、そのキャプションによればすでに単行本の第3弾も予定されているようだ。

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《高田馬場の赤いきつねじゃなくて 下北沢の赤いきつねが食べたいんです!!》

赤いきつねは関西とそれ以外の地域ではダシが違うそうだけど、さすがに同じ東京の高田馬場と下北沢で違いがあるわきゃないだろ! と思わずツッコミを入れたくなるセリフだが、これが誰のものかといえば、何と“マンガの神様”手塚治虫。

『コブラ』などで知られるマンガ家・寺沢武一は、手塚プロダクションでアシスタントを務めていた頃、ある晩、手塚から赤いきつねを買ってくるよう頼まれる。近所(高田馬場)のコンビニにあるだろうと出かけようとする寺沢を、いったん引き留めて手塚が言い放ったのが例のセリフであった。しかたないので、寺沢はわざわざタクシーに乗って下北沢まで買い物に行ったのだとか。だがなぜ下北沢だったのか、理由はいまもってわからない。

先頃出た『ブラック・ジャック創作秘話2 〜手塚治虫の仕事場から〜』(宮崎克原作・吉本浩二マンガ)ではこのほかにも、手塚が原稿執筆中、アシスタントや編集者など周囲の人たちに無茶な注文をして困惑させていたことが、多くの証言によってあきらかにされている。ベレー帽や差し歯をなくして、あれがないと描けないと言い出したり、出張先でも、いつも使っている鉛筆やペーパーボンドがないと言って編集者に現地で探し回させたり。食べ物についても無茶な注文は多かったようで、真冬にスイカを食べたいと言い出したときは、銀座のクラブまでマネージャーが行き分けてもらったという。

ファンにはよく知られているように、チョコレートもまた手塚にとって欠かせない食べ物だった(ぼくが2001年の手塚の13回忌に墓参りへ行ったら、墓前にはやはりチョコがたくさん供えられていた)。マンガ家の松本零士は、高校時代にいちど手塚の仕事を手伝いに行った際、彼が編集者に「チョコがないと(原稿が)描けない!!」と訴える場面を目撃している。

なお松本が手伝ったのは、手塚が福岡の旅館でカンヅメになっていたときで、ほかにも高井研一郎など当時松本と同じく九州在住で、のちにプロとなる高校生たちが臨時アシスタントとして駆り出されたという。そもそもなぜこのとき手塚は福岡くんだりまで仕事を抱えて赴いたのか、『ブラック・ジャック創作秘話2』では、そこにいたるまでの悲喜こもごもも描かれている。そもそもの発端は、雲隠れした手塚をある雑誌の若手編集者が躍起になって探し回ったことにあった。その経緯はまるで刑事ドラマのようで、なかなかスリリングだ。

本作は、一昨年に刊行された『ブラック・ジャック創作秘話』に続くシリーズ第2弾ということになる。第1弾の舞台はそのタイトルどおり、手塚が『ブラック・ジャック』の連載を始める前後、1970年代が中心だったが、本作では、手塚の第一次黄金期ともいうべき1950年代(松本零士たちがアシスタントに駆り出されたのはこの時期にあたる)から、1960年代の虫プロダクション時代、それから虫プロ倒産を経て復活をとげた1970年代後半まで、かなり幅広い時期が描かれている。生前、マンガのアイデアはバーゲンセールするほどあると語っていた手塚だが、本書を読んでいると、ご本人にまつわるエピソードのほうも尽きないなあ、と感心させられる。ぼくがとくに興味深く読んだのは、虫プロのとある元社員にスポットをあてた第9話の「虫プロてんやわんや」と題するエピソードだ。

中学卒業ののち田舎から上京し、10年ほど肉体労働で食いつないできた河井竜は、24歳だった1963年、たまたま新聞に虫プロの社員募集の広告が出ているのを見て、入社試験を受ける。そのとき面接では、こんなやりとりがあったという。

「給料はいくらほしいの?」
「基本的な生活ができればいいです」
「基本的な生活って…?」
「納豆と飯があればいいということです!!」

せっぱつまった状況が伝わってくるが、その甲斐あってか彼は無事入社する。ちょうどこの年の1月1日より、虫プロ制作による国産初の連続テレビアニメ「鉄腕アトム」の放映が開始されていた(今年の元日でちょうど50年を迎えたことになる)。週に1回の放送に間に合わせるため、虫プロではスタッフたちが連日徹夜で作業し、ノイローゼになったり過労で倒れる者も出ていたという。

河井の担当は制作進行。アニメーターたちにスケジュールを守らせるのがその主な仕事であり、徹夜続きで疲れきったスタッフが、机で寝始めようものなら容赦なく叩き起こした。それゆえ社内では彼を嫌う者も少なくなかったようだ。その容赦のなさは、虫プロの社長である手塚に対しても例外ではなかった。原画を早く描くよう迫られ机の下にもぐりこむ手塚を、河井が引っ張り出すべく足をつかむと勢い余ってか靴下が脱げてしまう。思わず《僕の靴下 どうするんですか!!?》と逆ギレする手塚先生の顔が、怖い……。

さて、「虫プロてんやわんや」には後日談ともいうべきエピソードがあった。河井は入社から数年して、あきらめかけていた演劇の夢をもういちど追いかけたいと、退社を申し出る。最初は思いとどまるよう説得していた手塚も、やがて彼の意志の固さに折れる。そればかりか、退社後、バイトをしながら夢を追い続ける彼を、虫プロぐるみ、あるいは個人的にも援助したのだった。そのやり方は、えっ、そこまでやったの!? と思わせるもので、読んでいるこちらまで畏れ多くなるほどだ。

このエピソードが、第1弾も含め『ブラック・ジャック創作秘話』の数ある話のなかでも異色なのは、成功談ではなく、挫折の体験談だということだ。それでありながら、いや、だからこそ、この話からは手塚の人柄、あるいは彼のつくった虫プロがどんな場所だったかがよく伝わってくる。たとえば、河井は虫プロについて《手塚先生が 世間から外れた若者に 居場所を与えたと オレは思っているんだ》と語る。そういえば、この時代の手塚の名作のひとつ『バンパイヤ』は、その主人公・狼男のトッペイ少年が虫プロへ「マンガ映画をつくりたい」と突然訪ねてきたのを、手塚が彼の素性もわからないまま入社を認めるシーンから始まるが、現実の虫プロもまさにこのとおり、来る者を拒まずであったのだ。

河井はまた、手塚から《僕にできるんだから あなたにもできます!!》と言われたこともあったという。これは、テレビアニメ「W3(ワンダースリー)」の制作時のこと。ちなみに、原作となる雑誌連載とアニメを同時に進めることになった「W3」の企画が生まれたのには、次のような事情があった。じつは、同作と前後して、国産初の連続カラーアニメとして「ジャングル大帝」をつくるため、虫プロ内から精鋭スタッフが選抜された際、なぜか原作者である手塚が外されてしまったのだ。そこで彼は、河井をはじめ選抜から漏れたスタッフをを集めて「W3」をつくることになる。精鋭をすべて「ジャングル大帝」にとられたうえ、手塚自身も雑誌連載との二足のわらじと、ハンデは大きかったが、そんな河井たちを手塚が励まそうと口にしたのが例の言葉であった。思えば、こうしたはみ出し者たちに対する温かい視線は、手塚の作品にも貫かれていたものではなかったか。

ところで、本作でマンガを担当する吉本浩二は、『ブラック・ジャック創作秘話』の第1弾を刊行したのち今回の続編を上梓するあいだに、東日本大震災で被災した三陸鉄道の復旧に尽力する人々を描いた『さんてつ 日本鉄道旅行地図帳 三陸鉄道 大震災の記録』という作品を手がけている。こちらも綿密な取材にもとづいて描かれたものだ。

今回の『創作秘話』第2弾では、手塚のもとで右往左往するスタッフたちを俯瞰して描いた、いわゆるモブシーンが前作以上に目立つのだが、それは『さんてつ』とも共通する。前者が“天才”、後者が“天災”と、振り回されるものは違うものの、ある目標に向かって人々が団結するさまが、一人ひとりの表情まで描きこむことでひしひしと伝わってくる。『創作秘話』の主人公は手塚治虫のようでいて、じつはその周辺の有名無名の人々なのではないか。新作を読んでつくづくそう感じさせられた。(近藤正高)

※今年は『ブラック・ジャック』の雑誌連載開始からちょうど40周年を迎えることから、宝塚歌劇で同作が19年ぶりに舞台化されるほか、掲載誌であった「週刊少年チャンピオン」でも、医療従事者から「ブラック・ジャックに聞かせたい体験談」を募り、わたべ淳や高見まこなど手塚の元アシスタントたち6人が新たな『ブラック・ジャック』としてマンガ化するという企画もあるという(サンエイムック『ブラック・ジャック大解剖』参照)。