F1に参戦していた頃のタキ・井上氏の若かりし姿。自力でF1に乗るための資金をかき集めてみせたタキの驚異的な営業手腕と行動力は、小林可夢偉も見習いたい!

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最近、Twitter上でのつぶやきが、マニアックなF1ファンの間で注目を集めている人物がいる。「元日本人F1ドライバー」の井上隆智穗氏(通称タキ・井上)だ。

10月の日本GP後、2度にわたって週プレ誌上にも「ゲスト解説者」として登場し、切れ味のいいコメントでF1界の裏事情をレポート。現役時代を知る世代はもちろん、これまでタキ・井上の存在を知らなかった若いファンからも大きな反響を呼んだ。

“怪人”タキ・井上とは果たしてナニモノなのか? 本誌では誌面の都合で詳しく触れることができなかった彼の“怪しさ”の正体を、『週プレNEWS』で拡大版プロフィールとしてご紹介しよう。

■プロフィール基本情報■

井上隆智穂(いのうえ たかちほ)1963年9月5日、兵庫県神戸市生まれの、元レーシングドライバー。85年に富士フレッシュマンレースでデビュー。英国フォーミュラ・フォード1600、全日本F3選手権、国際F3000を経て、94年のF1日本GPにシムテックからスポット参戦。翌95年にはフットワークアロウズから、念願のF1フル参戦を果たし、日本人としては中島悟、鈴木亜久里、片山右京に次ぐ4人目のフルタイムF1ドライバーとなる。最高位は95年イタリアGPの8位。引退後はモナコに住み、ドライバーのマネージメント等を手がけて今日に至る。

どうだろう? これだけ読むと、なんだかマットウなF1ドライバーのように感じるかもしれない。だが、多くの人たちの記憶に残るタキは、もっと怪しげな……何やら得体の知れない存在だった。その最大の要因は、彼がF1ドライバーになれたということへの純粋な「違和感」だ。

1.“遅すぎた”F1デビュー

遅すぎたF1デビューといっても、「もっと若い時にF1に乗れていれば……」という意味じゃない(汗)。確かに、31歳でのF1デビューは年齢的にも遅いほうだが、タキの場合、それ以前にF1に乗るにはレーシングドライバーとして「走りが遅すぎた」のだ(激汗)。

89年から4シーズンを戦った全日本F3や、94年のヨーロッパF3000選手権の成績を振り返っても、タキは優勝どころか、表彰台フィニッシュの経験もゼロ。そんな彼がいきなり、当時ブームの真っただ中にあったF1にデビューしたのだから、誰もが「違和感」を感じたのは当然だろう。

ちなみに、シムテックでF1デビューを果たした94年の日本GPでは、予選26位で最後尾グリッドにつけ(予選落ちが2台いるので実質的にはビリから3番目)、決勝レースではスタートからわずか3周でスピンしてリタイア……(追記:このレースではあの片山右京も3周でスピン〜リタイアしている)。続く最終戦のオーストラリアGPには姿を見せなかったため、「あれは一種の一発芸だったのか?」……と思った人も少なくなかった。

ところが翌シーズン、タキは英会話のNOVAやユニマットといった日本のスポンサーを独自にかき集め、なんと日本人として4人目のF1フル参戦ドライバーの座を獲得してしまうのだ! ちなみに、このシーズンもかなり遅かったし、危なっかしかったので、海外のメディアからは“NO WAY! TAKACHIHO”(コリャだめだ・タカチホの意)の異名で呼ばれていた。

しかし、その一方で、当時のチームメイト、マックス・パピス(後にインディカーなどで活躍)に予選で勝ったこともあるなど、ドライバーとして進歩していたことも事実だ。そういえば全日本F3の4年目(93年)には、あの高木虎之介を上回り総合ランキング9位につけたこともあるわけで。そこらの素人よりは、遥かにちゃんとしたレーシングドライバーであったことは間違いない。

2.「F1のシートは金で買った!」怪人タキの恐るべき集金力!

なぜ、飛び抜けた実績もない日本人ドライバーがF1デビューを実現できたのか? ほかならぬタキ自身が「F1のシートは金で買いました」と断言しているように、その理由は彼がかき集めたスポンサーマネーという「持参金」があったからだ。

だが、当時の日本にはバブルの余韻が残っていたとはいえ、ほぼ無名に近い存在だった彼が、どうやってそれだけの資金を集められたのか? そこに、ドライバーとして「遅すぎる」という致命的な弱点を補って余りある、怪人タキ・井上の突出した才能がある。

F1界の絶対的ボス、バーニー・エクレストンが放つ怪しくも強烈なオーラを見てもわかるように、巨大なF1ビジネスの世界には表と裏の顔があり、その裏舞台では巨額で複雑な「金の流れ」がうごめいている。F1デビューする前から欧州でF3000チームの運営に関わっていたタキは、その卓越した語学力と人脈を活かして、そうしたF1の裏舞台を知り、そこに流れる資金を巧みに操つることで、「F1ドライバーになる」という自分の夢をまんまと実現してしまったのだ。

全日本F3時代からタキのスポンサーとなり、彼の所属したチーム「スーパーNOVA」の設立にも関わった英会話NOVAの創業者、猿橋望氏がなぜ、タキをあれほど支援したのか? その錬金術の詳細はいまだ謎に包まれた部分も多いのだが(当時、タキはフジテレビのF1中継をしていた古舘伊知郎から「走るF1駅前留学」と呼ばれていた)、彼のF1参戦に多くの人たちが感じた「違和感」は、日本の自動車メーカーの支援やエンジンの助けなしに、自力でF1に乗るための資金をかき集めてみせたタキの驚異的な営業手腕と行動力によってもたらされたと言ってもいいだろう。

3.世界中のF1ファンを虜にした(?)ふたつの事故

F1におけるタキのベストリザルトは、95年イタリアGPの8位!(ただしトップから1周遅れの完走中最下位……)。だが、タキ・井上の名を世界中のF1ファンにとって忘れえぬモノにしたのは、95年シーズンに彼が経験したふたつの「あり得ないアクシデント」だ。

この年のモナコGP、フリープラクティスでのこと。コース上でストップしたタキのマシンが牽引されていたところに、フランスのラリードライバー、ジャン・ラニヨッティの運転するマーシャルカー(現在のセーフティカーのようなもの)が激突! マシンはタキを乗せたまま、衝撃でひっくり返ってしまったのだ。

しかし、不運はこれだけでは終わらない……。その約2ヵ月後のハンガリーGPでは、エンジントラブルでコースサイドにストップしたタキがマシンを降り、白煙を上げるマシンに消火器を向けようとしたその瞬間! 彼を「救助」に来たはずのメディカルカーに、なんとタキ自身がはねられてしまう……。

この事故の映像は今でもYouTubeなどにアップされているが、この瞬間、タキ・井上は世界的なスターになったと言っても過言ではない。F1ドライバーとして唯一、1シーズンに2度も大会関係車両に激突された男! 笑っちゃいけないのに、何度見ても笑ってしまう……このふたつのアクシデントによって、「Taki Inoue」の名前はF1史に深く刻みつけられることになったのである(汗)。

4、オモシロすぎるツイッターに世界が注目

引退後もモナコに住み続け、その実態が謎に包まれている、“怪人”タキ・井上。……が、その存在が近年、注目を集めている。それは、英語、日本語のバイリンガルで展開される彼のツイッターがオモシロすぎるからだ。

お得意の消火器を使った「自虐ネタ」や、ユーモア満載で伝えられるモナコでの怪しげなセレブ生活とともに、彼独自の人脈ネットワークを生かしたF1の情報や分析コメントが、文末につけられている「(汗)」の文字と共にテンポよくツイートされている。その情報網は多岐に渡り、世界中のF1ファンはもとよりヨーロッパのメディアや業界大物関係者も多数フォロアーになるほど。昨年、彼が誰よりも早くキミ・ライコネンF1復帰の報を発信したことでも一躍話題となった。

もちろん、「F1の世界はポーカーみたいなもの」と断言するタキ・井上だけあって、彼のツイートもどこまでが「ホント」でどこまでが「ブラフ」なのかは、誰にもわからない。しかし、F1の裏事情も知る彼の「清濁合わせ飲んだ視点」はきれいごとじゃないF1のリアリティと面白さを伝えてくれるし、「このヒト、かなり怪しいなぁ……」という印象と同時に、彼のモータースポーツに対する、純粋な愛情のようなモノもハッキリと伝わってくるのは確かだ。

そりゃそうだろう。何しろ、自分の才能や実績が足りなくても、「F1に乗りたい」という夢をあきらめず、他の日本人が誰もできなかった方法で、その夢を強引に実現してしまった男なのである。その才能を生かせば、他のビジネスでもいろいろできそう……なのに、いまだにレース業界の周辺をウロウロしているのも、コレ、いうなれば「愛」なのだ。

そんなタキ・井上のツイッターは、いわば魑魅魍魎がうごめく魔界「F1」と、僕たちの住む現世をつないでくれる「魔界新聞」。表面的なキレイごとには飽きたF1ファンの「定期購読者」が増え続けているのもナットクなのである。