この原稿は、小澤一郎の「メルマガでしか書けないサッカーの話」2011年11月23日配信号(通巻第69号)を全文公開したものです。

 話者は永井謙佑の恩師である福岡大学・乾眞寛監督、九州国際大学付属高の杉山公一監督、そして小澤一郎。2011年9月23日、福岡市内のカフェ・ガレリアにて行なわれた「日本の育成が世界を変える!世界から見た日本サッカーの現在(いま)」の後半部分にあたるものです。

 ロンドン五輪での活躍により、永井謙佑が一躍世界的に注目されるようになりました。しかし、決してエリートではなかった永井のキャリアはここまで様々な紆余曲折を経ています。彼の爆発的なスピードはどこで身についたのか、「特別」な存在だった彼はどう育てられたのか? じっくりご覧ください。


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■「こいつは、化けなくてはいけない」


小澤 永井は高校3年生の時に初めて選手権に出場したのですが、当時のチームではどういう位置づけだったのでしょうか? 
 
杉山 一番下手でしたね、サッカーの技術的に見たら。スタートの11人で11番目。僕はプリンスリーグで後半勝負させるために、夏の暑いときは後半によく使っていました。彼は90分走れる選手ではなかったので、最初から出しても最後までもたなかった。だったら相手がきついときに出した方がいいな、と。90分通して戦える集中力や能力はまだまだで、技術的に上手い選手はうちの中にたくさんいたので、そいつらから怒られながらサッカーをしていました。
 
小澤 本人は「高校時代、まさか自分がプロに行くとは思っていなかった」という言葉を口にしています。杉山監督は、永井の選手としての素材をどのように評価していましたか? 
 
杉山 「こいつは化ける」というのはすごく感じていたんですけど、「化けてほしい、化けなくてはいけない」という気持ちもありました。彼が進学をする際のポイントも、そこでしたね。
 
小澤 杉山監督に以前お話を聞いた時、永井に対するアドバイスがすごくオリジナルで面白いと感じた部分があります。例えば「DFラインとヨーイドンで勝負するとオフサイドになってしまうから、事前に走るな」ということだったり。
 
杉山 そうですね。「パサーとDFラインを同一視野に入れて、いい動きをする」という、日本のサッカーのコーチングがあると思うんですが、あいつはそういった指導を受けたことがなくて、そのまま走るといつもオフサイドになっていました。
 
 だから「お前はヨーイドンで走ったら勝つんだから、ボール出てから走れば追いつくだろ」と。しかしドリブルをするといつもゴールラインを割ってゴールキックになっていましたね(笑)。そこで「まっすぐ走るからだろう、横に走ってみろ」「斜めに走れ」「切り返してみろ」とか、そういう初歩的な、小学生に教えるようなことを伝えました。
 
小澤 そういう発想ができたっていうのは、監督自身の選手としての経験もあったからではないですか? 
 
杉山 そうですね。僕もしょっちゅう同じオフサイドにかかっていましたから(会場笑)。
 
乾 この間の鳥栖スタで行なわれたマレーシア戦で2点目に絡んだとき、マレーシアのDFラインから1人だけ後ろに下がっていました。きれいにオフサイドラインの上に立って、飛び出さず我慢していました。成長しましたね。あれだけスペースがない中で、しかもオフサイドラインぎりぎりのディフェンダーの見えない位置に立っていた。実に冷静な判断だったと思います。