世界に独裁者と呼ばれる権力者はあまたいるが、その母親の死後において、国家を挙げて神格化作業を進める国など北朝鮮以外に存在しない。
 金正恩の生母、高英姫(コ・ヨンヒ=2004年死亡)が、生前ファーストレディーとして金正日に寄り添う『記録映画』の完全版を、日本の対北人権団体であるRENK(救え北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク)が入手、その一部が日本のテレビ局によって放映された。
 この記録映画は、正日の生前、この独裁者の意思によって編集が進められたと見られており、1952年生まれの高英姫の42歳ごろからの映像や写真をつづった内容だ。
 記録映画には、朝鮮中央放送によってテレビ放映された正日の活動映像から、今まで削除されていた英姫の姿が随所で復活しているだけでなく、初めての肉声も披露されている。制作に携わったのは、朝鮮労働党中央委員会映画文献編集社で、今年5月、序列最高位クラスを対象に初上映されたと同時に配布された。しかし、反響の大きさを恐れ、その後回収されている。

 北朝鮮では信仰を持つことは厳禁され、占いやおまじないの類いも一切禁止です。その理由は金ファミリーの3代が、それぞれ神のような存在であり、その発する言葉だけが未来を決定するからです。キリストや釈尊よりも上位者でなければならず、その意味で北朝鮮は、チュチェ思想を聖典とするカルト的宗教国家だといえるのです。
 現在の権力者であるジョンウン(正恩)の母の神格化は、イルソン(日成)の生母カン・バンソク(康盤石)、ジョンイル(正日)の生母キム・ジョンスク(金正淑)と同様の序列に置かれ、本格的な偶像化に乗り出す可能性が高いと思いますが、前代との違いは、すでにメディアによって伝えられているように、彼女が私と同時期に北送された成分(身分)の低い在日コリアン出身者であることです。
 しかもヨンヒ(英姫)は日本の通名を名乗った過去を持ち、祖父は日帝・日本軍の協力者でした。差別されていた韓国・済州島から日本に渡った在日においては、至極当然の稼ぎ方をしたまでなのですが、これはジョンウンの正当性に齟齬をきたす重大な事案です。したがって記録映画には、チャン・ソンテク(張成沢)・キム・ギョンヒ(金敬姫)夫妻ら側近によって、国家最高機密に指定された実名(映画ではリ・ウンシルとされた)と経歴は明かされることなく伏せられています。
 そもそもジョンウン自身が、この問題をどう捉えているかは定かではありません。ひょっとすると“済州島から大阪に出稼ぎに来た艶福家の祖父をタネに大阪で生まれた”などという母の出自など知らない可能性は高いのです。
 いずれにしても「ジョンウンよ安心しろ」と言ってやりたい。北送1世でヨンヒの出自などを知る者は、すでに死んで国内にはいやしない。2世も、食わせるのに忙しい親からヨンヒの出自など聞かされてはいない。また体制に組み込まれ出世した在日出身者は、口が裂けてもジョンウン母の出自など口にすることはないのです。
 しかし、外貨不足で海外に出稼ぎに行かされる党員諸氏の口に戸は立てられません。彼らは3年で帰国(現地責任者になると10年)しますから、外国で見聞きしたヨンヒに関する事実は全国津々浦々に伝播し、庶民が知っているのを知らないのはジョンウンだけ、という結果になるのは目に見えています。
 ところで、この記録映画の中でヨンヒの名前や経歴を伏せたこと以上に私が「やはり」と思ったのは、ジョンウンの兄弟(妹)の名が1人も登場しなかったことです。
 長男・ジョンナム(正男)はある意味当然として、記録映画の主人公であるヨンヒの長男・ジョンチョル(正哲)さえ登場しなかったのは、長男絶対の北朝鮮において、三男、ヨンヒにとっての次男が国のトップというのは、北朝鮮社会にモラルハザードが起こることを懸念した側近による、もう一つの隠し事ではなかったでしょうか。

 記録映画によると、遅くとも1970年代初頭から2人は関係を持ったことになるが、1971年には第2夫人の成恵琳(ソン・へリム)が正男を産んでいる。つまり金正日は、恵琳と夫婦関係にある中で、英姫と交際を始めたことになる。
 二股交際にショックを受けた恵琳は重度のうつ病に侵され、モスクワで療養後この地で没する。英姫の妹は、北朝鮮があれほど口汚くののしるアメリカに亡命したのだから、金ファミリーの内幕を庶民が知ったら天地がひっくり返る衝撃を受けるに違いない。

 ヘリムは不幸な人です。義父であるイルソンから「嫁」として認められませんでした。それは彼女が女優であったこと以上に、南(韓国)のキョンサンナムド(慶尚南道)で生まれ、朝鮮戦争前の1948年に家族と共に北に移住したという出自に理由があります。
 これをヨンヒと比較するとどうでしょう。女優と舞姫(喜び組)、朝鮮戦争前に北に移住した家系と戦後に移住した家系という対比が見えてきます。そこから成分的にはヘリム・ファミリーの方がマシといえます。したがってイルソンが、ヨンヒとその子を認めなかっただろうことは想像に難くありません。が、ヘリムの家族が重用されなかったのに対し、ヨンヒの父親などは優遇されています。その理由は、ヘリムを妻としていたころのジョンイルと、ヨンヒと一緒だった時代とは権力の大きさがまったく違います。それがヘリムには不幸なことでした。
 とはいっても金ファミリーにそもそも正当性などありません。イルソンは、抗日戦といっても日本の正規軍と戦ったというより、駐在所を襲撃したに過ぎないし、仲間を置き去りにして旧満州から旧ソ連に逃れた後、北に移住した帰国者です。ジョンイルもソ連からの帰国者ですから、金ファミリーは3代続いた帰国者一家と位置付けられます。
 権力を正当化すればするほど他国から笑われる…。それを熟知しているからこそ、シナリオに無理がある記録映画を作らざるを得ないのです。 石川昌司(いしかわ・まさし)氏は、1947年2月16日神奈川県川崎市生まれ。父は在日韓国人、母は日本人である。1960年13歳のときに一家で北朝鮮に渡り、その後36年間北朝鮮に居住していた。
 1996年、金正日体制の圧政に耐えかねて北朝鮮からの脱出を決意する。鴨緑江を越えての決死の脱出に成功し、外務省の保護下、密かに日本に帰国した。
 日本人脱北帰国者第1号である石川氏に、北朝鮮の最新情報を聞く!