日本赤十字社の行事会場に入られる美智子皇后陛下(2008年撮影)

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「皇太子さまのご意向もお酌みして…」――。お妃選考首脳らは、こう言って巧みに「民間」の美智子さまをお妃候補の中に入れることに成功した。

「お妃選び取材班」担当だった元朝日新聞記者の佐伯晋さん(81)に皇太子さまがたの「『テニスコートの恋』をめぐる虚実」に関する推理を聞くインタビュー第2部の4回目は、「皇太子さまに恋をして頂く」必要性をめぐる選考首脳らの思いについて語ってもらう。

候補に加えることをさりげなく提案した

前回、ご婚約が11月に決まる年の1958年の2、3月あたりに、皇太子さまと美智子さんとをめぐり、同じテニスクラブ入会などの動きが出始めたものの、お妃選考として、まだ形式的には美智子さんが本命になっていたわけではない、というところまで話しました。

1958年1月に旧華族のK嬢がほぼダメとなった後、今度は松平信子・常磐会会長が、やはり旧華族のH嬢を検討するよう提案します。宮内庁幹部らお妃選び首脳も、発言力がある松平会長の意向は無視できないのです。松平会長の提案を受け、3月3日の小泉邸首脳会議で、K嬢断念の正式決定とH嬢を調べることが決まりました。

実は、この3月3日の会議の終わりの方で、(選考首脳の)小泉信三さんが美智子さんも候補に加えることにしたらどうでしょうとさりげなく提案し、そして何となく了承されたようです。

これは大きな節目です。小泉さんは、2月に皇太子さまから美智子さんのことを調べてみるよう言われたことを受け、3月3日の提案の際に「皇太子さまのご意向もお酌みして」とつけ加えています。これが重要な点です。

「皇太子さまに恋をして頂く」必要性

皇太子さまの「ご意向」もなく、やみくもに小泉さんらが民間人の候補入りを提言すれば、「旧華族のお妃」にこだわる松平会長らの耳にほどなく入り、反対されることが目に見えているからです。

また将来、旧華族からではなく、民間からお妃を選ぶことになるとすれば、反対派を突破する糸口として、「皇太子さまに恋をして頂く」必要性が生じてくると、当時の選考首脳らは考えたはずです。

それはなぜか。皇太子さまのご結婚には「皇室会議を経る」必要があると皇室典範に定められています。皇室会議は、首相や衆参議長のほか皇族も入った10人で構成されます。

当時の皇室会議には、民間お妃には否定的とみられていた秩父宮妃も入っており、仮に会議前の面談や会議の場で反対されると、賛成派の人の考えにも影響が出かねない事態が想定されます。

お妃選考首脳らだけでは、とても皇族の方々を説得はできないであろうことを、首脳らが念頭に置いていたとしても不思議ではありません。

民間から皇室に入るのは想像もできないほど敷居の高いこと

そうすると、皇太子さまご本人が強い情熱をもって、反対する皇族の方々を説得されなければならなくなります。その際、その説得の原動力になるよう「皇太子さまに恋愛して頂く」必要性がある、と首脳らは考えたのではないでしょうか。

実際、皇太子さまは後に、ご婚約が決まることになる1958年11月27日の皇室会議の前、11月12日に3時間半かけて秩父宮妃らに説明なさることになるのですが。

さらには、民間から皇室に入るということは、今では想像もできないほど敷居の高いことだと当時は考えられていたので、お妃候補になる人への説得も、選考首脳らだけでなく、皇太子さまご本人からの働きかけが不可欠で、その働きかけの情熱の原動力としても、やはり「恋愛」が重要だ、と首脳らはみていたのでしょう。

この1958年3月3日の小泉邸首脳会議の後、4月の初旬には、理由ははっきりしませんが、旧華族で候補だったH嬢が選考からはずれたことが首脳らの間で確認されました。

以降、民間候補の美智子さんに意見を集約する方向で選考首脳らは動いていきます。5月2日の宇佐美毅・宮内庁長官邸での会議では、ほぼ美智子さんへの候補一本化が決まります。


<編集部注:佐伯さんが当時のことを語る際、「民間」時代の美智子さまのことは「美智子さん」と表現しています>


<佐伯晋さんプロフィール>

1931年、東京生まれ。一橋大学経済学部卒。1953年、朝日新聞社入社、社会部員、社会部長などを経て、同社取締役(電波・ニューメディア担当)、専務(編集担当)を歴任した。95年の退任後も同社顧問を務め、99年に顧問を退いた。