『COM 40年目の終刊号』霜月たかなか編/朝日新聞出版
本書のカバー絵を手がけた和田誠は、「COM」でも1968年1月号より1971年4月号まで表紙にひとコママンガ風のイラストを描いている。同時期には和田は「話の特集」や「週刊サンケイ」といった雑誌の表紙も担当していたはずで、現在にいたっても「週刊文春」で仕事をしていることを考えると、おそらく日本でもっともたくさん雑誌の表紙を描いたイラストレーターといえるだろう。

写真拡大

「火の鳥」というタイトルを持つ作品は、ストラヴィンスキー、伊藤整、美川憲一などさまざまな人によって発表されているが、なかでももっともポピュラーなのは手塚治虫の作品だろう。手塚にとって「火の鳥」は、新進気鋭のマンガ家だった20代から、60歳で亡くなる直前まで、掲載誌を何度か変えながらも描き続けられたまさにライフワークだった。

「火の鳥」のシリーズ全体を通しては、火の鳥を狂言回しに過去と未来を交互に描きつつ、しだいに現在に近づいていくというコンセプトがあったのだが、それが明確化するのは1966年11月のマンガ専門誌「COM」の創刊とともにシリーズが再開してからだ。同誌では「黎明編」、「未来編」、「ヤマト編」、「宇宙編」、「鳳凰編」、「復活編」、「羽衣編」があいついで連載された。これらは完結したものの、続く「望郷編」は1971年に「COM」が休刊したため第2回で中断を余儀なくされている。その後「望郷編」は『マンガ少年』という雑誌で新たに連載が始まるのだが、これは「COM」のバージョンとは異なる。

この幻の「COM」版の「望郷編」の第1回が、さきごろ朝日新聞出版から出た
『COM 40年目の終刊号』に再録された。読んでみるとたしかに、いま全集や文庫などで読める、「マンガ少年」での連載をもとにした同作とは設定も登場人物も異なり、完全にべつの作品だとわかる。手塚ファンとしては、「鉄腕アトム」の悪役・スカンク草井が、オーヴァードと名前を変えながら登場するのがうれしい(なお、「COM」版「望郷編」はその第2回とあわせて、復刊ドットコムより現在刊行中の「火の鳥 復刻大全集」の第5回配本『復活編/羽衣編』[10月下旬発売予定]に収録される予定だとか)。

さて、今回“終刊号”の出された「COM」という雑誌は、「虫プロダクション友の会」(虫プロダクションというのは手塚治虫のアニメプロダクション)が会員向けに毎月発行(郵送)していた会誌『鉄腕アトムクラブ』を書店販売のマンガ誌に格上げする形で、虫プロ商事という会社から創刊された。「COM」創刊の理由のひとつには、多くの制約があった商業誌とは一線を画し、作家が自由に作品を描ける場所をつくろうという意図があった。ただしそのぶん原稿料は安く、マンガ家たちに対しては、「印刷・紙がいい」「手塚治虫と同じ本に載る」「商業誌にない好きなものが描ける」という口説き文句で寄稿してもらっていたという。石ノ森(当時は石森)章太郎の「章太郎のファンタジーワールド ジュン」のように、ストーリーのないイメージをそのまま作画したような実験的な作品が連載されたのは、やはり「COM」ならではといえる。このほか、同誌は岡田史子や宮谷一彦などといった若手作家をメインに据えるなどして独自の存在感を強めていった。

『COM 40年目の終刊号』のなかで元編集者の萩原洋子は《COMは遅筆の作家の集団だった》と語っているが、それはやはり表現にこだわる作家が多かったということだろう。もちろんその筆頭が手塚治虫であったことはいうまでもない。あるときなど、手塚の「火の鳥」がなかなか上がってこないため、編集者の野口勲が代わりに載せる原稿を探していると、当時の編集長から「こんなのしかないけど……」と、投稿されたものの数カ月間ほったらかしになっていた原稿を渡されたという(本書所収の野口の「COM編集者回想録 二度目の編集顛末記」参照)。「ポーチで少女が小犬と」と題するその作品に野口は衝撃を受け、即座に掲載を決めた。この作品の作者は誰あろう、70年代に少女マンガ界に新風を巻き起こすことになる萩尾望都である(ちなみに本書巻末の「COM」インデックスを見ると、同作の載った「COM」1971年1月号には「火の鳥」もちゃんと掲載されたようだ。おそらくギリギリでまにあったのだろう)。

「COM」の特色としてはもうひとつ、創刊号より「ぐら・こん(GRAND COMPANION)」という読者ページを設けて広くマンガの投稿を募ったことがあげられる。新人登龍門としての役割は、創刊号の手塚による「創刊のことば」でも謳われていたものの、実際に具体化したのは、当時虫プロの社員だったマンガ家の真崎守(まさき・もり)であった。「ぐら・こん」は、創刊号を出す直前になっても約30ページが埋まっていなかったため、編集長から相談を受けた真崎が《まんがの時評とかまんがファンが集まる、バカをやれる場所ということで使わせてください》と頼みこんだのがきっかけで生まれたという(本書所収の「COM関係者座談会 2009/8/2――京都編」での証言)。

はたして「ぐら・こん」には、新しい才能がきら星のごとく結集することになる。やはり本書に収められた「ぐら・こん」作家一覧リストには、前出の岡田史子や宮谷一彦をはじめ、青柳裕介、長谷川法世、やまだ紫、あだち充、片倉陽二(懐かしいなあ、「コロコロコミック」に連載された「のんきくん」)、コンタロウ、竹宮惠子、日野日出志、みなもと太郎、諸星大二郎などといった名前がならぶ。上にあげたのは「COM」に投稿原稿が全ページ掲載された作家たちだが、このほかにもいしいひさいち、大友克洋、村上もとか、山岸凉子、変わったところではフォークシンガーで俳優の泉谷しげるなども「COM」への投稿経験を持つ。

「ぐら・こん」はまた、「COM」編集部を中心に全国のマンガマニア……プロ作家、読者、批評家、マンガ家志望者を結集し、全国組織の結成をめざした。具体的には、全国各地に設けた支部ごとに機関誌・回覧誌をつくるなど積極的な活動をうながすとともに、その活動のなかで現れた有望な新人を「ぐら・こん」の投稿欄で育成、「COM新人賞」に送りこむよう努めるものとされた。マンガ創作グループや同好会などの同人サークルはすでに全国にあったものの、それらが交流する機会はほとんどなかったという当時にあって、「ぐら・こん」の登場は画期的なものだった。

だが、支部の運営がうまくいかなかったり、「COM」編集部が雑誌編集のほうに追われ活動になかなか関われなかったりといった問題も生じた。けっきょく「ぐら・こん」は『COM』の休刊とともに空中分解にいたる。それでも「ぐら・こん」がマンガ同人サークルの活性化に果たした役割はけっして小さくない。日本最大の同人誌即売会であるコミックマーケットも元はといえば、「ぐら・こん」に参加していた同人たちが集まって、その理念を引き継ぐかたちで始めたものだったりする。その経緯は、コミケ準備会の初代代表を務めた霜月たかなかの著書『コミックマーケット創世記』にくわしい(同書については以前、「日経ビジネスオンライン」の書評でとりあげたことがある)。じつは霜月は『COM 40年目の終刊号』の編者でもある。

コミケといえば、本書に再録された作品のひとつ、みやわき心太郎(原案は美和剛)の「ウルルンサービス 完熟美女」は、もともとコミケ出展の同人誌に寄稿されたものの、締め切りにまにあわず半分下書きのまま掲載されたものだという。貸本マンガ出身で「COM」の執筆作家であったみやわきは、本書に収められた2つの座談会にも出席しているが、昨年(2010年)10月に急逝している。上記の作品は、その死後、完成されているのが見つかり今回の再録にいたったのだとか。その内容は、朝日新聞出版の本にこんな作品が!? と思うほどエロいのだけど、でも絵がとても丁寧に描かれているせいか下品さを感じさせない。何より人体の描写がすごくリアルで、その観察眼のたしかさをうかがわせる。

みやわき以外にも、永島慎二、青柳裕介、岡田史子、片倉陽二、あすなひろし、やまだ紫、村野守美、出崎統など、『COM』の作家にはすでに亡くなった人も多い。手塚と石ノ森もその死去からすでに久しい。このうち永島については「シリーズ 黄色い涙 青春残酷物語(4) フーテン」(「COM」1967年12月号)が再録され、「ほえろボボ」(のち「ほえろブンブン」と改題)で知られる村野は、当時を回顧する文章を依頼されたものの構想の途中、今年3月に死去、本書には遺されたメモと夫人による補稿が収められている。

「COM」が休刊した主な原因は、営業上の懸念から読者対象の年齢を大幅に下げるとともにマニアックな部分を排除したことにあるという。その2年後、73年にはいったん復刊されたものの、直後に虫プロ商事と親会社の虫プロがあいついで倒産したため、復刊2号が出ることはなかった。今回の“終刊号”が出されたのには、うやむやのまま終わった「COM」にちゃんと幕を下ろしてやりたいというかつての読者たちの思いがあったのだろう。実質5年しか存在しなかった雑誌が、40年経っても人々に強い記憶を残し、熱っぽく語られているという事実にはやはり驚くしかない。(近藤正高)