【加護亜依】自殺未遂の直後に彼女を罵る人には、想像力が欠如している

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例えば、あなたの親戚に学校で教師をつとめる女性がいるとしよう。その女性が、教育委員会のおエラいさんの男性と婚約をしていた。そのことは、生徒の父兄らもなんとなく知っていたが、騒ぐことはなかった。ところが、その男性が不正経理で公金を横領していたのが発覚し、警察に逮捕された。同時に、ちまたではその男性と女性の関係が騒がれ、女性はショックで自殺未遂をはかる。

そのとき、女性と親戚関係にあるあなたは、何を思い、何をするのだろう。女性の婚約については、「人を見る目がない」などと問題視するかもしれない。また、男性との関係を騒がれ自殺未遂をしたことについては、「あらかじめわかっていたら止めていた」と考えるかもしれない。いや、この時点で何を思い、何を考えていたのか、今回についてはあまり問題ではない。問題は、その先である。

自殺未遂をはかった親戚の女性を、自殺未遂をはかった直後に、「自業自得」「顔がきていた」「精神病院入れろ」「転落人生」などと、あなたはネットで罵るだろうか。少なくとも筆者はそんなことは言わない。なぜか。その人は、世間に対して反論できないくらい精神的に追い詰められているから自殺未遂をはかったのだ。そんな人に対して追い打ちをかけるように罵詈雑言を投げかけたら、その人はさらに弱ってしまう可能性がある。

2011年9月11日付の時事通信は、タレントの加護亜依さんが手首を切るなどして自殺未遂をはかったことを報じている。原因は不明だが、「交際相手の飲食店経営会社代表安藤陽彦容疑者(44)が恐喝未遂容疑で逮捕された事件」が世間で騒がれたことがその一因であることは察しがつく。世間は芸能人のゴシップが大好きだから、騒がれること自体は仕方のないことだ。それが原因で加護さんが自殺未遂をはかったのだとしたら、不幸なことだとしか言いようがない。だが、問題はその先である。

加護さんが自殺未遂をはかったニュースが流れると、「キタコレ」とばかりに加護さんを罵るコメントがネットにはん濫した。そのコメントのひどさと書き手の想像力のなさに呆れてものが言えない。冒頭で示したように、もし自殺未遂した女性が親戚や友人であったなら、ネットで罵詈雑言を投げかけるのではなく、まずは起きてしまった事態をかんがみ、見舞いの言葉を発するか、黙って事態を見守るのが常識的な感覚なのではないか。

世間に対して反論できないくらい精神的に弱っているという意味では、親戚の女性も加護さんも同じである。「加護さんは芸能人だから……」などというのは、箸にも棒にもかからぬ幼稚な言い訳であろう。繰り返すが、芸能人であろうと親戚であろうと、弱っている人に変わりはないのだから。親戚なら見舞いの言葉を発したり黙って事態を見守って、加護さんならネットで罵るという人がいるのなら、その人には想像力が欠如していると思われる。

もし、加護さんを罵っている輩が東日本大震災の被災者を見舞うようなコメントをしていたら、それは二重基準(ダブル・スタンダード)というやつである。弱っている人がいるという点では同一だが、加護さんに対しては罵りのコメントをネットに書き、被災者に対しては「がんばろう」などと見舞いのコメントを書いていることになるからだ。しっかりとした想像力のある人は、自殺未遂をはかった人を、その人が芸能人であろうと親戚であろうと未遂の直後に罵ることなど決してしない。筆者は、そう信じたい。

集団一致の暴力は、それをやっていたり参加していたりする分には楽しいし、安心できる。なにより、その人を攻撃しているときには自分は攻撃されないのだから。だが、いつ自分が攻撃されるのかなんてわからない。ならば、攻撃されたときのダメージを考えて、やたらと攻撃するのはやめよう、と気づくことがある。そう、「攻撃されたときのダメージを考える」ことこそ、人の立場を想像する力、すなわち想像力ということなのだ。そして、想像力の欠如した人たちが闊歩する社会は、暗闇の社会である。

(谷川 茂)