ホームで3−1。テレビスポーツニュースはこの結果を、ほぼ例外なく「快勝」と報じていた。ポジティブな言葉を並べていたが、相手は、試合が始まり5分も経たぬうちに4−0、5−0は行けると思わせたクウェートだ。

同じくテレビのスポーツニュースは、先のキリンカップでは、ペルーを「格下」と言い切ったが、ペルーを格下と言い切るならクウェートは「超格下」だ。超格下を相手にアウェーゴールを許した日本。ホームで3−1と、実質2点を切る点差でしか勝てなかった日本。

アウェーゴールを許したなら、「目には目を」の精神で、5−1、6−1で片付けなければ格好は付かない。にもかかわらず、それを快勝と讃えるセンスには思わず閉口させられる。甘口辛口という前に、分かってないという話になる。このサッカー偏差値はかなり低い。

もっとも、クウェートにホームで3―1で勝った試合を、どう報じればいいのか。どんなタイトルを付ければいいのか、難しいことは確かだ。大喜びできない結果をどのような言葉を使って報じるか。サッカーは言ってみれば、その繰り返した。大喜びできる試合はそうそうない。悲嘆に暮れるべき敗戦も少ない。テレビ泣かせ、新聞泣かせのスポーツだと僕は思う。野球の方が100倍、扱いやすい。

野球にはいささか失礼な言い方をすれば、野球報道には行間が少ない。結果がすべてみたいなところがある。そして日本はその文化、つまりサッカー的ではない文化によって支配されている。

行間で想起するのは「パスを繋ぐサッカー」だ。チャンピオンズリーグ覇者、バルセロナのサッカーであり、日本が求めているサッカーというか、好きそうなサッカーだ。だがそれは、これまたひところ流行った「ボールも人も動くサッカー」と通じるところがある。
「なぜ、ボールも人も動くのか」という逆の質問にも答えられないと、その本当の答えは見えてこない。それは現象なのか、目的なのか。

関塚ジャパンも例外ではない。そうした日本人の好みを反映したサッカーだが、監督の拘りがよほど変わっていない限り、そうなることは目に見えている。よほど変わった選手選出、選手起用をしない限り、パスワーク重視のサッカーになる。

とはいえ、もはや、パスワークを重視しないサッカーなどあり得ないわけで、その中に巧緻性が組み込まれているのが日本のパスワークの特徴だろう。他国より少しばかり繊細に見える理由だ。バルサ的と言えばバルサ的。だが、両者の間に決定的な差があることも事実。バルサのみならず、それは欧州のパスワークすべてとの相違点と言ってもいいかもしれない。

関塚ジャパンのパスワークを、急角度で眺めの良い、豊田スタジアムの記者席から俯瞰で眺めていると、それは確信に近づく。

バルセロナのカンプノウも、記者席からの眺めはイカしている。世界最高の眺めというべきだろう。バルサのサッカーが「上からの目線」を意識した、まさに美しいサッカーをしていることも輪を掛ける。サッカーを見ていて美しい瞬間はいろいろあるが、ほぼ上空に近い上からの目線にとっては「展開美」になる。

展開の美しさを見てくれ! という位置に、カンプノウの記者席は設置されている。メッシのドリブルを見てくれではない。イニエスタ、チャビのボール操作術を見てくれ! ではない。彼らが世界のファンに最もアピールしたいことはさにあらず、だ。バルサというクラブがメッセージとして伝えたいことは「美」。「展開美」だ。グアルディオラ監督は、現役時代、そのパスワークの起点となるコントロールタワーとして活躍した。彼こそがバルサの展開美を支えるミスター・バルセロナなのだと思う。