大丈夫でしょうか、皆さん。

何と言えばいいのでしょう。言葉になりません。話す気が湧きません。サッカーどころではありません。いま日本で起きていることを考えると、サッカーの話などしている場合ではない気がします。

サッカーはエンターテインメント。僕はそう割り切っています。サッカーは戦争だとか、国の威信を懸けて戦うものだとか言われていますが、所詮は娯楽。何のかんのと言っても、絶対になくてはならないものではありません。サッカーがなくても人間は生きることができます。

「たかがサッカー、されどサッカー」は、僕のメルマガのタイトルでもありますが、基本的には「たかがサッカー」なんです。まず「たかが」ありき。で、それを受ける言葉として「されど」がある。エンターテインメントと割り切るには、あまりにもサッカーは魅力的。奥が深い。「されど」を強調したくなる理由です。

僕は、「たかが」と「されど」を、世の中の状況を見計らいながら使い分けてきたつもりですが、いまの状態は「たかが」100%。それを使い分けできる状態にはありません。「されど」と言う気がまったく湧かない状態にあります。針が振り切った状態とはこのこと。サッカーの魅力を語る気持ちは、完全に失われた状態にあります。

平和、安全、無事。この3つの要素の上に成り立っているのがエンターテインメント。サッカーをおもにカバーするスポーツライターは、戦場カメラマンではありません。昨年ワールドカップを開催した南アのように、治安の悪い場所に赴くこともありますが、戦場には行きません。スリルをいい感じで味わいながらサッカー(スポーツ)というエンターテインメントと向き合うのがスポーツライター本来の姿。娯楽ライターなのです。

批判したり、文句を言ったりすることが、僕は他の人に比べて多いわけですが、エンターテインメントの世界に存在しているとの確信があるからこそできるワザです。エンターテインメント性を高めるために、敢えて言わせてもらっている。100%本気で怒っているわけではありません。盛り上げるためにフリをしているのです。本気になりかねないようなフリですが、フリはフリ。エンターテインメントを構成する一員としての役割を果たそうと演技しているわけです。

しかし、平和、安全、無事がまったく確保されていない非エンターテインメントの世界では、フリはできません。100%いや200%大真面目。そんなことをしている場合ではありません。

サッカー協会のある幹部は「世界に日本人が元気でいることをアピールしよう」と、日本代表戦開催に前向きな姿勢を示しました。「宮市(フェイエノールト)のプレイに元気をもらった」との記事も目に止まりました。

「こういう時期だからこそ、サッカーで世の中を盛り上げよう」という声もよく耳にしますが、僕には違和感のある言葉に聞こえて仕方がありません。

世界に日本人が元気でいることをアピールする必要は、どこにあるのでしょうか。

それはいま元気でいる人の発想に他なりません。

そもそも「宮市のプレイに元気をもらった」のは誰なのか。被災地のファンがそう言ったのではありません。いま元気でいる人です。そもそも宮市のプレイを見ることをできる環境が、被災地には満足にありません。

福島原発の問題もあります。計画停電も行われています。余震も続いています。孤立している人もたくさんいます。安否が分からない人も多数います。応援物資も避難所にまだ行き届いていません。未曾有の大災害はまだ進行中です。

「サッカーやってる場合ですか」と言い返したくなります。

エンターテインメントを受け入れる状態にない人が無数存在します。それでも「ニッポン! ニッポン!」と盛り上がりたいわけですか。違うんじゃないかなと僕は思います。

宮市や長友に向ける視線にもそれは言えます。どうしても見たいのなら一人で静かに見るべきでしょう。「悲しみに明け暮れている人を元気づけましょう」は、被害に遭わなかった人の身勝手な発想。被災者の方々が見たいと言うまで我慢すべき。ニュージーランド戦、モンテネグロ戦は延期にすべし。僕はそう思う。

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