父の暴力、母の失踪「ボートで年収1000万」のCMで飛び込んだボートレース界で生涯獲得賞金・女性トップに。日高逸子「強さの源」
ボートレース界の「グレートマザー」と呼ばれ、通算2539勝、生涯獲得賞金は女性歴代トップを誇った日高逸子さん。2025年夏、63歳で40年に及ぶ現役生活に幕を閉じました。それだけ偉大な記録を打ち立てたのなら、幼少期からアスリートの英才教育を受けてきたのかと思いきや、ボートレースの世界に踏み込むまでの半生は、あまりに意外なものでした。
【写真】ボートに乗れば勝負師の顔に。現役時代の「グレートマザー」の素顔(全11枚)
父の暴力、母の失踪…貧乏生活が引き寄せた運命
── 22歳でボートレースの養成所に飛び込み、現役中は2度の出産を経てボートレーサーとして復帰・活躍した姿や、常に第一戦で走り続けた驚異的な強さがゆえ、「グレートマザー」とまで呼ばれた日高さんですが、ボートレースを知ったきっかけは?
日高さん:22歳のとき、たまたま目に入ったテレビCMで「ボートに乗って年収1000万!」と謳っている映像を見て、その数字に単純に惹きつけられました。
当時家が貧しかった私にとって1000万円は想像もつかないくらいの大金。「そんなにお金がもらえるなら」と思って試験を受けたら、合格してしまったんです。ボートの乗り方もルールも全然わかってなかったのに(笑)。
── 当時の家の状況について教えていただけますか?
日高さん:私は宮崎県の田舎で両親と兄、私の4人家族で暮らしていましたが、私が4歳のとき、父がバイク事故に遭遇。そこから父は後遺症の頭痛に悩まされ、酒を浴びるように飲んでは暴れるようになりました。そんな父に耐えかねて、私が小学1年生の夏に両親が離婚。母は保育士をしていて、穏やかで優しい人だったように記憶していますが、ある日、突然、私たちを置いていなくなってしまいました。
わたしたちは祖父母の家に引き取られました。
── お父さんの酒乱は落ち着いたのでしょうか?
日高さん:変わらなかったですね。入退院を繰り返しながら、父が酔って暴れ始めたら、祖父母と一緒に親戚の家に逃げ込んで。落ち着いた頃をみはからって帰宅すると家の中はめちゃくちゃ。玄関のドアは壊れ、電化製品もグチャグチャで、見かねた近所の人が片づけを手伝ってくれるような状況でした。
信用金庫、旅行会社と職を転々としていた
── その後、高校に進学しますが、在学中に事故に遭遇したとか。
日高さん:高校3年生のある日、原付バイクを運転中にトラックと衝突して、卒業まで松葉杖の生活になりました。家は貧乏だし、高校卒業後は就職を考えていましたが、怪我をしてろくに就職活動ができなかったので、叔父が勧めてくれた地元の信用金庫に就職することになったんです。
でも、その職場は自分にはまったく合わなかった。はじめから信用金庫で働くことに気乗りしていませんでしたが、まったく仕事の面白さが自分にはわからなくて。1年で辞めて上京しました。
叔父には怒られましたが、私は一度こうと決めたら昔から絶対に自分を曲げないんです。それに、とにかく地元から外に出たいと思う気持ちが強かったです。
── その後、宮崎から上京し、どんな職業を経験しましたか。
日高さん:専門学校を経て、旅行会社に就職しました。ツアーコンダクターになって、国内でも海外でも好きに旅行してみたかったんです。ところが入社した会社はデスクワークがメインの仕事でした。しかも、よくよく考えたらツアーコンダクターの仕事をしたとしても、ツアーコンダクターってたぶんお客さんをまとめたり、案内したりする仕事ですよね。他人のお世話をするのが好きでも得意でもない自分には向いてないだろうと思って、半年も経たずに会社を辞めました。
そんな矢先に、たまたま目に入ったのがボートレーサー募集のCMだったんです。
全身全霊で戦う仕事に巡り合い何かがハマった
── 22歳のころですね。33倍の倍率の難関をくぐり抜けて試験に合格したそうですが、養成所の生活は厳しかったそうですね。
日高さん:それはもう厳しかったですよ。40年前ですが、女性は6人ひと部屋に押し込められていましたが、男性は女性に比べて部屋の人数に余裕がありました。男尊女卑がすごかったので、男性は大風呂やサウナがあるのに、女性は家庭用風呂を順番待ちして入るしかない。上下関係も厳しく先輩は絶対で、新人は有無を言わさず働かされました。
でも、自分には帰る場所がなかったし、選手になれば大金が動く世界。厳しくて努力するのが当たり前。そういう覚悟は早い段階からありました。
── 選手としてやっていけそうな手応えはありましたか。
日高さん:最初は本当に下手くそでしたが、暇さえあれば練習に行っていました。次第にだんだん勝てるようになってくると、もう、楽しくて楽しくて。優勝すると、その後2、3日ずっと幸せでした。もともと賞金目当てで始めた仕事ですが、気づけばお金よりも勝つことが目的になっていました。
── 信用金庫も旅行業も経験した日高さんですが、何より選手生活が合っていたと。
日高さん:そうだと思います。63歳で現役を引退するまで、周りのサポートはもちろんのこと、何よりボートレーサーの仕事が大好きだったし、自分に合っていたんだと思います。信用金庫のように数字を緻密に合わせるとか、ツアーコンダクターのようにお客さんを誘導する仕事も素晴らしいです。でも自分はその仕事に熱中することはなかった。ボートレーサーもはじめから「これがやりたい!」と明確だったわけではないですが、実際にやってみたら、私はもともと負けず嫌いだし、わかりやすく順位が出る仕事が自分には合っていた。ひとつの場所で結果が出るまで頑張ることももちろん大切ですが、仕事には相性が合って、私はボートレーサーの仕事を結果的に長く続けることができました。
たしかに怪我のリスクとは隣り合わせですが、それ以上の達成感や目に見える喜びが大きかった。何より「私にはこれしかない」という強い覚悟がありましたから、どんなにつらくても辞めるという選択肢は浮かびませんでした。
── その後は40年も第一線で走り続け、通算2539勝、生涯獲得賞金は女性歴代トップという偉業を成し遂げました。
日高さん:常に「どうすればもっと速く走れるか」を考え続けていました。偶然に導かれるように飛び込んだ業界でしたが、こんなにも長く情熱をもって走り続けられたことは本当に幸運だったと思います。
取材・文:阿部花恵 写真:日高逸子

