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昭和改元から満100周年を迎えることを記念して、昭和の日である4月29日、政府主催の「昭和100年記念式典」が挙行された。

昭和43(1968)年の「明治百年記念式典」に比べると、国民の関心は低調であったけれども、記念式典はあくまでも関連施策の一つでしかないため、今後の盛り上がりに期待したい。

「令和を生きる我々は、昭和の先人たちが築いた『豊かさ』の土台に立ち、その叡智(えいち)と努力に学びながら、歴史の流れの先にある、我が国の新たな姿・価値観を模索していくことが必要である」――"「昭和100年」ポータルサイト"より。

このような基本方針のもと、全国的にも昭和の文化に関連する歌謡、マンガ・アニメ、映画についてのイベント開催など、さまざまな取り組みが推進されている。

しかし、一連の施策で取り上げられる文化といえば、長嶋茂雄や王貞治らが活躍したプロ野球や、式典でも披露された昭和歌謡といった、社会的に健全とされるメーンカルチャーがやはり基本となろう。

だからこそ、筆者はあえてこの機会に、文化史的にあまり日の当たらない方面を取り上げてみたい。具体的には、戦後の歴史的なパチンコブームだ。

「今日もパチンコ行くんだったらチョコレートとってきてくれ」

パチンコといえば、不健全な趣味というイメージが根強くある。かくいう筆者もそのような偏見を抱いてきた者の一人である。

しかし、昭和20年代後半の「第1次パチンコ黄金時代」と呼ばれるブームは、大勢の貴顕紳士も興味を抱くほどの、まさに国民的と評すべきものであった。ほんの一例を示すと、元伯爵の酒井忠正氏が「真白い手袋をはめて」パチンコを弾いている姿を目撃されている。

興味深いことに、国内で最もパチンコと縁遠そうな皇室の方々ですらも、周囲の人々が非常に熱中していたことから、無縁ではいられなかった。上皇陛下は学習院在学中、よく景品を持ってくる千家崇彦氏(旧男爵家)にこう所望されたという。

「今日もパチンコ行くんだったらチョコレートとってきてくれ」

学習院のご学友たち――旧華族がまだ相当数を占めていた――の間でも流行していたために、陛下はその話を聞かされるうちにパチンコのどんな点が面白いかを理解されるまでになったそうだ。

皇太子という立場ではさすがに自らお遊びになる機会はなかったであろうが、その他の一般皇族については意外とエピソードが存在するので、以下に特集しよう。

修学旅行中に恩師からパチンコを教わった常陸宮

まずは上皇陛下の弟・常陸宮正仁親王殿下の逸話である。殿下の学習院時代の教師だった小高敏郎氏の追悼録に、次のような一文がある。

「学習院の高等科に勤めるやうになつて、今の常陸宮、義宮殿下も小高君の生徒になられた。奈良へ修学旅行の折とかに、パチンコ屋へお伴して手ほどきを申し上げたといふのも愉快な話である」――『小高敏郎君追悼録』(昭和42年)

教師が学校行事中にパチンコを生徒に教えるというだけでも衝撃的なのに、その生徒が時の第二皇子だというのだから、もはやあぜんとしてしまう。現代なら批判されそうだが、これも昭和という時代の大らかさを示すエピソードだといえよう。

戦後の皇族は、このようにパチンコ好きに取り囲まれていた。昭和天皇の末弟・三笠宮崇仁親王はある時、『週刊朝日』編集長などを務めた春海鎮男氏からパチンコの魅力について熱弁を振るわれた。彼の話が三笠宮にはよほど印象的だったようで、春海氏は次のように後日談を語っている。

「私の顔をみるなり『ヤア、ヤア、どうもどうも。時々、この方はつづけてやっておられますか?』と、右手の親指を立ててピクピクと動かされるのであった。私は、それがパチンコの話と了解するまでに、四、五秒の時間がかかった」――春海鎮男『淡路のいかなご』(ブロンズ社、1981年)

こんな知人がいれば、興味が沸くのは自然なことだろう。三笠宮はしばらく後、その春海氏らからの提案に応えて、パチンコ店にふらりと足を運ばれたのだった。

字数的制約からあまり詳述できないが、この逸話は辰野隆氏の『凡愚問答』でも触れられている。三笠宮は玉を「ビスケット箱と化粧石けん」に引き換えて、百合子妃へのお土産として喜んで持ち帰られたという。

高松宮「現金を二百円持ってきたぞ!」

戦後の皇族のうち最もパチンコに関心をお持ちだった方は、おそらく昭和天皇の弟君・高松宮宣仁親王である。

是非やってみたい――。三重県志摩市にある皇室御用達の『志摩観光ホテル』では、かつて娯楽室にパチンコを設置していた。高松宮はお成りの際、ふとこれに目を止められて、そう仰ったという。

「宮殿下とパチンコ、新聞記者ならずとも之は愉快なことである。すばらしいホテルの歴史(いやこれは日本の歴史ともならう)」

当時の支配人である川口四郎吉氏は、そう勢い込んで弾き方をお教えしようとしたけれども、朝まではあったはずの玉がなぜか一つもなくなっていたため、この時は不首尾に終わった。

しかし、高松宮のご希望はどうやら別の場所でかなったようだ。その舞台は、石川県金沢市にかつて存在した『白雲楼ホテル』である。

「高松の宮様が湯涌温泉の白雲楼の娯楽場でパチンコをして遊ばれた。二度目に来られた時、『今度は現金を二百円持って来たぞ』と『現金』に力を入れて言われたと、女中の話」――岸本水府『人間手帖』(清文堂書店、昭和30年)

とても楽しみになさっていた様子がうかがえる。なお、当時の二百円の価値は、キャラメル十箱を買える程度であり、けっして派手な遊興ではなかったことを付記しておく。

「三笠宮妃殿下に瓜二つ」の婦人が…

「こんな時間に食事に来るなんて、まっとうな暮らしじゃないね。だけど、あんた品のあるいい顔している。誰かに似てるね。パチンコでもして、一時間して来れば、うまいもの作るよ」

上に示したのは、静岡県熱海市の老舗レストラン「スコット」の創業者・蓮見健吉氏の言葉である。柳原敏雄氏の『味のかたりべ』によると、たまに来る婦人客が、昼の営業時間を過ぎてから一人の婦人を連れてきた時に、そう言ったのだという。

いきなり何の話かと思われそうだが、これこそが、筆者が初めて目にした皇室とパチンコ遊びについての記述であった。

「しばらくして、二人の婦人は戻って来た。パチンコははじめてで、玉の入れ方にも迷ったという会話に、健吉はまじまじとご婦人の顔を見て、わが目を疑ったのである。三笠宮妃殿下に瓜二つのお顔ではないか」

筆者はこれを読んだ当初、単なるそっくりさんに違いないと思った。それはとりもなおさず「皇族がパチンコなどなさるものか」という固定観念からの決めつけであったが、今ではこう思わずにはいられない。もしかしたら本当にご本人なのかもしれない――と。

パチンコの歴史を振り返ると、よくあるメダル投入型の遊技機が登場したのが昭和10年前後のことらしい。昭和初期に流行していた現金投入タイプの「一銭パチンコ」が、ばくちなんぞに「菊の御紋」入りの硬貨を用いるのはけしからん――とお叱りを受けた結果として生まれたものだという。

そんな扱いを受けていたものが、十年、二十年後には皇族方すらお遊びになる娯楽になったというのだから、すさまじい世相の移り変わりだ。パチンコ一つを取っても、昭和がいかに激動の時代であったかがわかるであろう。

文/中原鼎 内外タイムス