スラヴの人魚には足がある?――【連載】奈倉有里「猫が導く妖しい世界」#14

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この連載では、スラヴの昔話からやって来た物知り猫“バユーン”が、ロシア文学研究者・奈倉有里さんとともに皆さんを民間伝承の世界へとご案内します。
今回はどんな不思議に出会えるでしょうか?
※2026年度『まいにちロシア語』テキスト5月号より抜粋
(スラヴ:ロシアやウクライナ、ポーランド、ブルガリアなど、ヨーロッパ東部から北アジアに広く分布する、スラヴ系諸語を話す人々の暮らす文化圏)

第十四回 人魚が陸にあがるとき

人魚週間がやってくる

 ここ数日は初夏のような陽気だ。海から吹いてくる風はまだ少し肌寒いけれど、田んぼや畑の作物たちはすっかり緑に潤って、夏を目指して張り切っている。だけどバユーンは散歩の途中で海辺の温水プールを横目で睨んで、「こういう時期こそ気が抜けないんだからね」とつぶやく。バユーンは相変わらずの水嫌いだ。水辺の妖怪たちも暖かくなってさらなる活躍のときを待っているんだろうか。
 そういえばもうすぐ人魚週間だっけ、と私が言うと、「うん、ルサルカ週間ね」とバユーンが返す。そう、スラヴの人魚はルサルカ(русалка)と呼ばれる。春の復活祭から数えて七週目、つまりは五月の末ごろになると、ルサルカ週間と呼ばれる時期がやってくる。
 確か、この時期になると人魚が陸にあがってくるんだったかな、と考えていると、バユーンは私の一歩先でなにかを思いだしたみたいにぴょんとひとつ跳ねて、もったいぶった顔で振り返り、「僕がいた入り江にもいたんだけど、覚えてる?」と、妙なことを訊きいてきた。バユーンがいた入り江って……あ、そうか、プーシキンの話だな。
 プーシキンの物語詩『ルスランとリュドミーラ』の冒頭に出てくる、樫の木にかかった金のくさりをつたってうろうろして、右に歩んでは歌をうたい、左に歩んではおとぎ話を語りだすっていう学者猫。そのモデルになったことがあるのが、バユーンのちょっとした自慢なんだよね。言われてみれば確かにプーシキンは続く箇所で、「ルサルカが木の枝にいる」って書いてたんだった。
 でも変だな。ルサルカって人魚だよね。なんで水から顔を出してるんじゃなく、木の上にいるんだろう。どうやって木にのぼったんだ?
 バユーンは少し首をかしげて「そもそも、ユリは人魚ってどういうイメージ?」と訊く。人魚っていえば、上半身が女の子で下半身が魚でしょ。加えていえばアンデルセン童話に出てくる、悲恋のイメージがつきまとう。王子に恋をした人魚は、船の難破事故から王子を助け、そのあと魔女に頼んで美しい声とひきかえに人間の足を手にいれて王子に再会するけれど、声が出せずに真実を伝えられなくて……っていう話だったよね。「そうなんだよ、アンデルセン童話が世界的に知られているから現代ではそのイメージが強いけど、スラヴのルサルカはもともと足があるって説もある」とバユーンは話す。足がある?

いろいろな人魚たち

 なんでも、人魚の伝説は古くから世界各地にみられ、バリエーションが豊富で、どこからがどの人魚なのか判断が難しい場合も多いらしい。もとはといえばギリシャ神話に、歌で人を魅了して海に引きずり込むセイレーンがいるわけだけど、セイレーンは下半身が魚なだけじゃなく上半身には鳥の翼がついているって聞いたことがある。顔が人間で背中が鳥で下半身が魚だなんて、なかなか盛りだくさんだ。
 プーシキンの物語詩には、ルサルカがどんな外見をしているのか詳しくは書かれていない。わかるのは、人を誘惑して水のなかに引きずりこもうとすることだけだ。画家のイワン・ビリービン(1876-1942)は、アンデルセン童話のロシア語訳の挿絵としても人魚を描いているけれど、スラヴのルサルカを描く場合は描き分けていて、足のあるルサルカが木の上にいる様子を描いている。背中に翼はないけれど、「木の上にいる」っていうのは、どことなく上半身が鳥だったセイレーンの影響を受けているようにも思える。
 バユーンは「いろんな形の人魚がいるけど、基本的には水のなかに人を引きずりこむっていうところがポイントかな」と説明し、「ま、アンデルセンの場合はだいぶ違うけど、あれは伝承を発展させた創作童話だからね。その点、グリム童話には『水の魔女』っていう話があって、ロシア語には『ルサルカ』って翻訳されてる。実際、こっちのほうが人魚の伝承に近い。子供の兄妹がうっかり井戸に落ちて水の魔女につかまっちゃって、必死で逃げだして助かる……っていう話で、伝承らしい物語構造が強く残ってる。グリム童話の水の魔女は、水難の比喩的な存在のままなんだ」と蘊蓄を披露する。
 私はふと思いだして、「でも、水難の比喩ってところまでいくと、このまえ話してた水の妖怪ヴォジャノイと大差ないんじゃないの?」と訊いてみる。バユーンはあっさり「うん」と同意して、「実際、スラヴの人魚的存在はヴォジャノイの女性版、ヴォジャニツァ(водяница)とも呼ばれていて、ルサルカ伝承と内容的にも重なるものが多い。ついでにいうと、ヴォジャノイとルサルカは恋人同士か、あるいはヴォジャノイの片思いだっていう話もある」と答えた。なにそれ、面白い。どっちも人を溺れさせる困った妖怪のくせに、水のなかで片思いなんかしてるなんて。

途絶えてしまった思い

 でもバユーンによると、違いは性別だけではないらしい。ヴォジャノイは水を守る、自然と一体化した妖怪だけど、ルサルカは入水自殺した若い女性がなるとされている。見た目がほとんど人間なのは、どうやらそのせいだ。一部の地域では妖怪や精霊という認識もなく、単に水死した女性のことを話す際に、名指しを避けて「ルサルカ」と呼ぶという。
 なにか越えられない不幸な出来事があって水死してしまったルサルカたちが、この時期、陸に姿を現し、草原で輪になって楽しそうに踊りだす。もし生きた人間がうっかりそこに紛れ込んでしまうと、もちろん水に引きずり込まれる。
 どうして初夏なのか、その理由はいくつかあるようだ。ヴォジャノイの場合と同じで水が勢いを増す時期だってことや、寒暖差が激しいから風邪をひきやすいってことを、人々に警告する意味もある。あるいは、ちょうど植えつけが終わって育っていく作物の生育を踊りながら願ってくれている、なんていう、案外ありがたい説もある。さらには若い娘たちのあいだで、「人魚の友情」と呼ばれる集まりをする地域もあって、内緒話をして互いに秘密を教えあうんだって。それは楽しそうだ。
 ひととおり話を聞き終えて、ふと(そうだ、帰りに山菜を買っていこう)と思って直売所に向かって足を進めながら、いま聞いたルサルカの話をどう捉えたらいいのか考える。育っていく作物、暖かくなる日差し、流れる水──そんな伸びやかで輝かしい光景のなかに踊り出てくる、水死した娘。そのコントラストの強さに、ふいに目眩がする。なんだろう。水辺にいるわけでもないのに、気を抜いたら想像上の光景に引き込まれてしまいそうだ。
 直売所の店先まで来ると、大きな青いカゴに生産者ごとに分けられて新鮮な野菜や山菜が並んでいる。私はこごみを一袋手にとって、さっきの目眩を振り払おうと「この山菜もルサルカが成長を願ってくれたのかな」とバユーンに話しかけた。バユーンは人の気も知らずに「それは若芽だから、植物としてはむしろ本来これから育つはずだったものだと思うよ」などと答える。
 くるんと丸まったこごみの先端に目を落とし、考える──本来これから育つはずだったもの、か。ルサルカたちは、ひょっとしたらこの季節に、一種の親近感を感じているのかもしれない。止まってしまった自分の成長の続きを託したい気持ちと、人を水に引き入れて水死の仲間にしてしまいたい気持ちの両方を、抱え続けているのかもしれない。
 バユーンは神妙な顔をしている私をからかうみたいに、「山菜をおひたしにするユリは、山菜の目線からみれば、自分を水に引きずり込むルサルカみたいなものかもね」と笑うと、さっさと好物の海苔が置いてある棚のほうに行ってしまった。

奈倉 有里

1982年生。ロシア文学研究者。著書に『夕暮れに夜明けの歌を』『アレクサンドル・ブローク 詩学と生涯』『ことばの白地図を歩く』『ロシア文学の教室』『文化の脱走兵』『背表紙の学校』、訳書にミハイル・シーシキン『手紙』、サーシャ・フィリペンコ『赤い十字』など。

イラスト 山田 緑
公式HP:http://midoriyamada.net/