“自分の父親の愛人の息子を手伝う伯母が母代わり”…「妙な育ち」の40歳男性が、産みの親との再会に絶句したワケ

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波瀾万丈という言葉がある。自分が望む望まないにかかわらず、生まれながらにして波瀾に満ちた人生を送る「約束」がされていたような人は確かにいる。
「僕のことだと思います。20代半ばから、わけがわからないうちにいろいろなことに巻き込まれ、ようやく落ち着いたのがここ数年なんですよね」
苦い表情でそう話してくれたのは、徳井勇斗さん(40歳・仮名=以下同)だ。中肉中背、険のない穏やかな表情だが、ときおり妙に虚ろなまなざしを見せることがある。不思議な雰囲気の男性だ。
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「妙な育ち」をしてきた僕
「どこから話せばいいのか……。僕自身、妙な育ち方をしているんです。父と母は僕が生まれて半年もしないうちに離婚、母が出て行って父は僕のめんどうをみることになった。乳児を抱えて父子家庭は大変だということで、父の姉、僕にとっては伯母が同居した。僕はずっと伯母を母親だと思って大きくなりました」

伯母は当時、独身だったが、父がいないとき家に男性を引っ張り込むことがあった。今思えば30代前半の女性だから、恋人がいてもおかしくない。だが勇斗さんがいるから伯母は結婚することもできなかったのかもしれない。
「ただ、ことはそんなシンプルな話ではなかったんです。中学生のころ知ったんですが、父はいわゆる『不倫の子』で、祖母が大きな商店の主人の愛人だった。そして伯母は、その主人の娘だった。父は義姉には頭が上がらないという構図があった」
なぜ伯母が、自分の父親の愛人の息子のところに手伝いに来たのかはよくわからない。ただ、「伯母は変わった人だったから、本家で邪険にされたのかも」と勇斗さんは言う。小学生のころから伯母と男性がイチャイチャしているのを見たおかげで、彼はそこから妙にませた子どもになった。しかし成長するにつれ、伯母の奔放さから「女は怖い」と思うようにもなった。
「ちょうど父の出生のことを知ったあたりで、なぜか伯母が家から消えたんです。結婚したのか、あるいは何かあって本家に戻されたのかはわからない。父もなにも言いませんでした。ただ、『つらかっただろう、ごめんな』とだけ。伯母の行状をようやくつかんで、家を追い出したのかもしれません」
「自殺のような病死だ」
それからは父とふたりで暮らした。彼はごはんをたいて、近所の商店街で惣菜を買ってきて食べた。父の帰宅は9時ころ。父はいつもひとりで食べていた。あるとき友だちの家に招かれ、夜7時過ぎに一家で食卓を囲んでいるのを見て驚いたという。4人家族だったのだが、それぞれがしゃべり、みんなで相づちを打ち、一緒に笑う。ありふれたドラマの家族がそこにいた。
「ああいうのはドラマの中だけの世界だと思っていたから、ショックでしたね。それからなんとなく僕は料理に興味をもって、惣菜を買わずに自分で作るようになったんです。最初、父は驚いていましたが、案外、口に合ったようで、仕事を早めに終えて帰ってきて一緒に食事をするようになりました」
父は主義主張の強い人間ではなく、心根の優しい人だった。そんな父は、勇斗さんが高校を卒業して料理の学校に入ったところで、突然、亡くなった。わけがわからなかった。弔問に来た人たちがこそこそ噂話をしているのが勇斗さんの耳にも入った。
「父は職場の人妻と恋愛していたようです。誰かが『結局、自分を追い込んでいったんだろう。自殺のような病死だ』と言っていた。その人妻の夫にも知られて揉めていたようです」
母との再会
大人たちの口さがない噂が飛び交う中で、勇斗さんは喪主をつとめた。父の境遇が境遇だったために、親戚といえる人もほとんどいなかった。父の母は、父を産んでから実家を勘当され、ほとんど誰とも交流がなかったようだ。
「お通夜に来てくれたのは父の仕事関係者と、僕の友だちくらいでしたね」
勇斗さんの友人たちも、少し雰囲気が異様なお通夜にそそくさと帰っていった。父の仕事関係者たちも目礼だけして去っていった。
「誰もいなくなって夜も更けたころ、ひとりの女性が入ってきたんです。僕には、すぐにそれが母だとわかりました。誰が知らせたのかわからないけど、母は静かに入ってきて僕を見つめて泣いていました」
まさか父のお通夜で生き別れていた母に会えるとは思っていなかった。不思議と恨みつらみはわいてこない。「僕を産んだ人が現れた」という感覚だった。母はじっと勇斗さんを見つめ、「ごめんね」と言った。
母の「お願い」に…
謝られて初めて、母よりむしろ父に思いがいった。不器用だったけど、父は自分を心配してくれた。いきなり命が尽きるその瞬間、父はなにを思っていたのだろう。
「焼香をすませた母が、僕におずおずと『悪いけどお金貸してくれない?』と言いながら、僕が手元に置いていた香典に手を伸ばしたんですよ。なにを言っているのかわからなかった。弔問客も多くはなかったから、香典なんてたいした額じゃないけど、19年近く前に別れた夫の通夜に来て、息子から金を借りようってどういう人なのか……。僕は静かに『ふざけるな』と言いました。『あんたは私が産んだ子なのよ』と小声ながら威圧的に言う母に、『母親だとは思ってない』と彼は言い返した。『お金貸してよ』と騒ぐ母に『警察呼ぶぞ、とっとと消えろ』と言ってしまいました。心のどこかで、父が母を追い出したのではないかとずっと思っていたけど、そうではなかったと確信した」
彼は顔を歪めながらそう言った。初めて会った「自称母親」に、いきなりお金貸してよと言われたら、呆けたように笑い出してしまうかもしれない。あるいは、この人どうしちゃったんだろうとあきれて冷たい目で見るしかないかもしれない。
「僕、そのとき1万円札を母に投げたんです。拾って持っていけよと。母は泣きながら拾って去っていきました。母もつらい人生を送っていたのだろうと思ったのは、それから10年近くたってから。人づてに母が亡くなったと聞いたときです」
自分にはなにも残っていない
それを「不遇」「不幸」と感じているかどうか、彼自身にもわからないという。とにかく子どものころから楽しいことなどほとんどなかった。父との時間は振り返れば、しみじみと大事だったような気がするが、「楽しい」とは結びつかない。彼にとって「楽しい」のは、高校時代に友だちとバスケットボールをしていた記憶くらいだ。楽しさは一瞬のもの。すべてが淡く儚く消えていき、自分にはなにも残っていないと痛感した。
父親が亡くなってから、残してくれた少しの貯金を学費として料理学校で学んだ。身を立てなければいけないから必死だった。アルバイトをしながら3年間通って、彼はとあるレストランチェーンに就職した。
「僕は料理の才能があるわけではないから、料理人として働ければそれでよかった。独立して自分の店をもちたいという欲求はありませんでした」
つつがなく暮らしていければそれでいい。どうせ結婚なんてできないだろうし、する気もなかった。
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人とは違う幼少期を送った勇斗さん。記事後編では「縁」を感じた女性との出会いと、彼を待ち受けていた彼女の真実について紹介している。
亀山早苗(かめやま・さなえ)
フリーライター。男女関係、特に不倫について20年以上取材を続け、『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『人はなぜ不倫をするのか』『復讐手帖─愛が狂気に変わるとき─』など著書多数。
デイリー新潮編集部