「夜霧のハウスマヌカン」発売当時に、実際にブティックを訪れ、本職のかたと対面

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第1回【郷ひろみに憧れ芸能界に入るも…「親にも言えない」 ややのザンネンすぎた歌手デビュー】のつづき

 歌手を志し、ようやく迎えたやや(65)のデビューは、平山美紀をもじった「ヒマラヤ・ミキ」名義という、納得のいかない形だった。その後、1986年の「夜霧のハウスマヌカン」で一躍有名になったが、この曲も華々しき再スタート、とは言い難かった……。

(全2回の第2回)

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【写真】「やや」名付け親の甥っ子との貴重ショット…近影も

いとうせいこうのプロデュース作品で

「夜霧のハウスマヌカン」は、もともと1985年に発売された企画アルバム「業界くん物語」の中の1曲。プロデューサーのいとうせいこうのほか、竹中直人、斉木しげる、きたろう、中村ゆうじ、ふせえり、ちわきまゆみ、久本雅美、ナンシー関らが参加する中、「やや成田」として名を連ねた。

「夜霧のハウスマヌカン」発売当時に、実際にブティックを訪れ、本職のかたと対面

「姉の子が小さい頃、私のことを本名の八重子と呼べず『やや』『や〜や』と呼んでいたので「やや」。そして当時は千葉の富里市に住んでおり、成田に近いから『やや成田』って(笑)。田舎出身のハウスマヌカンのイメージで、最初はセリフ付きでした。『マイクさ握れば、小指が』とか。でもそれだけはイヤだと断ったんです」

 アルバムが出た翌年の1986年1月22日、シングルカットされた「夜霧のハウスマヌカン」が「やや」名義で発売された。

「インパクト強く歌ったほうがいいな、と思いながら歌いました。ディレクターからは『伸ばしの部分を前川清さんみたいに歌ってくれ』とも。26歳だったんで歌えたのかも。これがデビュー曲だと渡されたなら、ちょっと考えたかもしれないし、20歳そこそこならまだアイドルを目指せると思ってたから。ギャラは最初の企画アルバムのときに、5万円もらっただけ。印税契約もしてなくてね(笑)」

日本有線大賞新人賞を獲得

 ヒットするとは想定していなかったが、テレビの深夜番組で取り上げられ、「各地区の有線放送で上位獲得」との報が舞い込むように。ついに日本有線大賞の新人賞(上半期最優秀新人賞)を獲得。キャンペーンで全国を飛び回るようになり、地方のテレビ局やラジオ局からの取材が引きも切らず入った。

「でも、あまり顔は知られていなくて、街を歩いても気付かれることはほとんどなかったかな。生活はしやすかったですよ。普通にデートもできたし」

 ちなみにこの年の最優秀新人賞を受賞したのは「CHA-CHA-CHA」の石井明美。後に「ランバダ」で競作することになる。

ものまね番組にも出演

 その後、縁あって北島音楽事務所に所属することになり、「ものまね王座決定戦」(フジテレビ系)にも出演した。ヒマラヤ・ミキ時代に培った平山のものまねは絶賛され、他にも金井克子「他人の関係」や欧陽菲菲「雨の御堂筋」、美空ひばり「悲しき口笛」、弘田三枝子「人形の家」、藤圭子「圭子の夢は夜ひらく」、そしてかつて憧れだった郷ひろみの「哀愁のカサブランカ」などを披露した。

「最初の出演で『真夏の出来事』を歌ったんですが、栗貫(栗田貫一)さんに負けました。番組は勝ち上がり方式だったので、最初にプロデューサーに何曲か聞かせるんです。3人分ぐらい用意した中から『最初は平山さんやろうか』と言われたんです」

「ものまね珍坊」(フジ系)の「ご本人と一緒」コーナーで、平山本人と共演したこともあった。

「『ヒマラヤ・ミキってあなたでしょ』って言われたんです。最初はヒマラヤ・ミキのことが嫌だったんですって。でも作詞の橋本淳先生に『それだけ歌われるってことはすごく有名ですごい歌ってことだぞ』と言われたのを聞いて、平山さんも納得されたそうです」

 ものまね番組によって、ヒマラヤ時代の活動が昇華したのだ。

「ランバダ」で再び石井明美と

 そして1990年に「ランバダ」が日本でも大ブームとなった。哀愁を帯びた曲調に、女性の脚の間に男性が脚を入れて踊る情熱的なダンスが話題になり、レコード会社各社から「ランバダ」カバーが発売された。セールス的に最もヒットしたのが石井明美の「ランバダ」。一方、有線でリクエストが多かったのが、ややの「ランバダ」だった。

「『このランバダを歌ってるのは誰ですか』っていう問い合わせが多かったそうです。当時、テレビに出るときはランバダを踊るダンサーをつけていました。私は『夜霧のハウスマヌカン』も、その後の曲も振り付けは自分で全部やったんですが、ランバダだけはレッスンを受けました。テレビでは必ずペアが踊り、最後に私も絡んで3人で踊る感じ。夏祭りに呼ばれてたくさん歌って踊り、3キロぐらい痩せた記憶があります」

 石井の曲は麻木かおる、ややは湯川れい子がそれぞれ日本語詞を担当。味わいも異なるランバダが、日本のバブル末期を彩っていた。

亡くなった父の後を継いで鉄工所経営も

「ランバダ」の後、両親が相次いで天国へ旅立った。実家が経営していた鉄工所は5歳上の姉が後を継いだが、その姉も2000年に45歳の若さで亡くなった。

「1997年いっぱいで北島音楽事務所から独立したのですが、マネージャーと姉と3人で頑張るつもりでした。でも半年も経たずに姉の病気が分かり、その2年後に亡くなりました。それまで家業はほとんど手伝ってなかったんですが、社員の方にもうちょっと続けてほしいといわれ、皆さんが引退するまでの7〜8年、頑張りました。マネージャーの女の子も経理などをいろいろ頑張ってくれたんです」

 歌手としてのスナックなどの営業も請け負った。甥である姉の子の小島慶太はプロゴルファーとなり、後に養子縁組をして、戸籍上では息子に。今は同じ敷地内で暮らし、孫にあたる慶太の子どもたちからも「やや」「やーや」と呼ばれ、充実した日々を過ごしている。

「芸能活動はそろそろいいかなとも思いましたが、昨年はNHKBSの『演歌フェス』出演もありましたし、今年は年始から三重県の長島温泉でのステージもありました。曲のキーは半音下げていますが、声も昔とぜんぜん変わらないとお客さんは言ってくださいます。できるだけ昔のように歌って懐かしいと思ってもらわなければ、歌う意味がないですからね」

 ドラマ「刑事ヨロシク」(TBS系)の主題歌「ライオンは起きている」で一世を風靡した「朝倉紀幸&GANG」のキーボーディストで、現在は音楽プロデューサーを務める松原ひろしと8年前から同居している。音楽的な刺激を受けつつ、今後も楽しんで歌っていくつもりだ。

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 第1回【郷ひろみに憧れ芸能界に入るも…「親にも言えない」 ややのザンネンすぎた歌手デビュー】では、「スター誕生!」のオーディションから始まった歌手デビューへの挑戦などについて語っている。

デイリー新潮編集部