1986年「やや」としてデビューした当時

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 1986年のヒット曲「夜霧のハウスマヌカン」や1990年前後に世界的な大ブームとなった「ランバダ」のカバーなどで知られる歌手・やや(65)。これらのヒット曲以前には、平山美紀のカバー曲でデビューし、ものまね番組に出演した過去をもつ。その原点を聞いた。

(全2回の第1回)

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郷ひろみの奥さんになりたい!

 実家は鉄工所を営んでいた。父母ともに音楽好きで、普段から音楽のある環境で育った。それがどう影響したのか、中学1年の夏にレコードデビューしたばかりの男性アイドルの虜になった。郷ひろみである。芸能界への道の第一歩を踏み出したのは、郷がきっかけだったという。

1986年「やや」としてデビューした当時

「ひろみの奥さんになりたい! ってそれが最初でしたよね。だからアイドルになる、って。その頃、同じクラスにも何人か郷さんのファンがいて、友達の一人から『じゃあ八重ちゃん(※ややの本名は小島八重子)、「スター誕生!」に出ちゃわない?』って誘われて、応募したんです」

 それが中学3年のとき。当時まだ「有楽町そごう」(そごう東京店)だった建物の上階にあるよみうりホールの会場に行くと、3〜400人の応募者が集まっていた。一緒に応募した友人は落ちたものの、ややは最後の5人に残ってテレビに出ることになった。

「岡崎友紀さんの『恋するふたり』を歌ったんですが、合格ラインが250点でした。私は245点で5点足らなかった。トップではあったんですけどね。その頃の『スター誕生!』は歌手になる子がいっぱいい過ぎて、何週も合格者が出ないようなときだったので、時期が悪かったのかな、なんて思いながら。落ちちゃった友達は『私、八重ちゃんのマネージャーやるから!』なんてはしゃいじゃって」

 審査員の一人だった作曲家の三木たかしからは「今は何とも言えない。でももう一度聴いてみたいな」と評されたという。ただ、やや本人にはもう出る気はなかった。学校を休んでまで出場したにもかかわらず合格しなかったことで、恥ずかしい思いだけがあった。アイドルになりたい思いは続いていたが、「スタ誕」の道は閉ざされた。

モデル事務所に所属し、CMデビュー

 その後、高校に入るとモデル事務所に所属することになった。5歳上の姉が東京・銀座でスカウトされ、事務所に行く際に「一緒に行こうよ」と促され、ついていった先でややもスカウトされたのだ。

「別にモデルをやりたかったわけじゃないんですけどね。学生だから遊び半分みたいな気持ちもあって」

 雑誌などの仕事をこなしながら、高校3年時には、CMデビューも果たした。生理用品のCMで、グアムへロケに行った。「健康的な女の子っていいね!」という台詞を話す松崎しげるの横にいる、何人かの女性たちの一人がややだった。

 高校卒業後には、夜の人気エンタメ番組「11PM」のカバーガールも務め、20歳のときには、マッハ文朱が主演した映画「宇宙怪獣ガメラ」で銀幕デビュー。「平和星M88のスーパーウーマン」のマーシャ役だった。さらに、クイズ番組「ズバリ!当てましょう」のアシスタントなども務めた。

「別に女優もやりたいとは思わなかったんですが、オーディションに行ったら受かっちゃって。なかなか音楽の仕事はなかったんですが、『ズバリ!当てましょう』では、歌手の人もゲストに来るんです。歌も歌うんですが、リハーサルなんかを見ながら、『私もここで、自分の歌じゃなくてもいいから歌ってみたいなあ』なんてことを考えていました。ピンクレディーさんも来ましたし、そうそう、郷ひろみさんも来たんですよ。お嫁さんにしてくださいとは言わなかったですけど(笑)」

ついに歌が! しかし「ヒマラヤ・ミキ」!

 21歳頃にモデル事務所を退所し、その後、別の芸能事務所に所属して改めて歌手デビューを模索していた。自分のデビュー曲はどんな曲だろうと心躍らせる毎日だったが、実際にデビューが決まると、用意されたのは1971年の平山美紀のヒット曲「真夏の出来事」のカバーシングル。そしてアーティスト名は「ヒマラヤ・ミキ&MODOKEES」。そう、“本人もどき”でのデビューだったのだ。ジャケットはシティポップ風の海辺の風景の絵で、やや本人の写真すらなかった。

「モドキーズだから全部が“もどき”な感じでしたよね。1週間ぐらいは親にも言えなかったですよ。みんな私のデビューを楽しみにしてるのに、ヒマラヤ・ミキ、なんてね。ジャケットも大瀧詠一さんみたいな感じだし。B面の『二人のバカンス』は私のために作られた曲だったんですけど、何と言ってもカタカナでヒマラヤ・ミキでしたからね。やっとの思いで親に伝えたんですが、『別にいいじゃない、やるだけやってみれば』と言ってくれましたね」

 ヒマラヤ・ミキとしては約半年間活動した。もちろんそれで満足したわけではなかった。

「もう23歳ぐらいになる頃だったのかな。自分でも詞や曲を作ってみようとかね。ユーミンにでもなろうかみたいな気持ちでちょっと勉強してました。そんな頃のことでした。『夜霧のハウスマヌカン』という歌があって、それを歌う人を探しているという話を聞いたのは」

 運命の曲との出会いだった。東芝EMIのディレクターに声を聴かせると、一発OKが出た。10日後にはレコーディングすることに。トントン拍子で決まっていったが、これも、記念すべきデビュー、というわけにはいかなかったのである。

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 運命の曲「夜霧のハウスマヌカン」との邂逅を果たしたやや。第2回【「夜霧のハウスマヌカン」元案にそれだけはイヤ… やや語る再スタートと「ランバダ」では「3キロ痩せた」】では、その秘話や、さらに後の「ランバダ」のヒットなどについて語っている。

デイリー新潮編集部