“黒幕”の秘書「太刀川恒夫さん」守り抜いた沈黙 「ロッキード事件の片隅にも連座するなど、心休まることの少ない人生」【追悼】

児玉氏との関係を隠さず
東京スポーツ、略して東スポは1960年に創刊された夕刊娯楽紙だ。他紙が記事化をためらう芸能情報も載せ、宇宙人に関する虚報が一面に躍り、人目を引く見出しでニュースを遊ぶ。
【貴重写真】みのもんたさんの古希祝いに駆け付けた太刀川恒夫さん
東スポにこんな自由な紙面が育った一因に90年以降、社長、会長を歴任してきた太刀川恒夫氏の存在が挙げられるだろう。68年に入社した太刀川氏は記者出身ではない。「政財界の黒幕」や「右翼の巨頭」と呼ばれた児玉誉士夫氏(84年に72歳で他界)の書生や秘書を務めた人物である。児玉氏は東スポのオーナーだった。
太刀川氏は児玉氏との過去の関係を隠すことも、氏の名前を背景に権勢を振るうこともなかったが、広範な人脈を誇った。勇み足の芸能記事に激しい抗議が来た際は、編集部門に代わって自ら話し合いに乗り出すこともあったという。いざとなればトップに太刀川氏がいる。それが取材現場の勢いにつながっていた。

88日間拘置も守った沈黙
37年、横浜生まれ。山梨県立日川高校を卒業。26歳年上の児玉氏の著作に感銘を受け入門を志す。60年ごろ、書生として受け入れられ、氏の勧めで中曽根康弘衆院議員の事務所で秘書修業。夜間は中央大学法学部で学んだ。67年から児玉氏の秘書を本格的に務めるようになり、同年に結婚、子供も授かっている。対外折衝の巧みさで信頼を得た。
76年、児玉氏はロッキード社の旅客機、軍用機の日本への売り込みに関し巨額の工作資金を受け取った疑いがかかるが、病気を理由に取り調べをかわした。
捜査当局は児玉氏の「分身」や「腹心」とされる太刀川氏を同年、企業への強要容疑という別件で逮捕、さらにロッキード事件に関する外国為替管理法違反で再逮捕した。保釈されるまで88日間拘置されたが、一切口を割らなかった。
児玉氏は後に在宅起訴されるも病状が悪化し、判決期日が延期されたまま他界。氏の亡き後の人生は、余生に過ぎないと落ち込んだ。
東スポ社長就任で“照れ”
6年後、東スポ社長に。お祝いの会には中曽根元首相や当時読売新聞副社長の渡邉恒雄氏らが駆け付けた。社長就任に際し「FOCUS」の取材に「ガラにもないことで」と照れていた。
90年、当時、東映の岡田茂社長を慕う経営者の集まり「オーケー会」に加わり、請われて世話人を務めた。
「財界」主幹の村田博文氏は振り返る。
「会の発足当時から、メンバーには伊藤園の本庄正則さん、モスフードの櫻田慧さん、ホリプロの堀威夫さんら創業者が多かった。事業を軌道に乗せるまで辛酸をなめた人たちで、太刀川さんが歩んできた苦難と重なりました。太刀川さんにとって気が休まる数少ない場でした。丁寧で言葉少ないが、話は歯切れよい。迫力を感じさせました」
「いつも相手を立てる人」
2007年、会長に。プロレス界との関係も深い。
力道山の次男でプロレスラーの百田(ももた)光雄氏は言う。
「父のことを話す時、“お父上は”とおっしゃって敬意と親しみを表して下さり、ありがたいことでした。礼儀が体に染み付いていて口調も人柄も優しい。いつも相手を立てる人。言葉に気持ちがこもっていました。プロレスの将来はどうなるかな、と心配されていた」
23年9月、名誉会長に。
「父の没後60年の法要にわざわざお越し下さった。車椅子姿でお体の調子も思わしくないご様子だったのに、義理堅いお方でした」(百田氏)
2月13日、老衰のため88歳で逝去。
東スポの平鍋幸治社長に「お別れのごあいさつ」を託していた。その中で〈社会人になってからも、やや特異な体験を重ねる中で、ロッキード事件の片隅にも連座するなど心休まることの少ない人生でありました〉と語り、先輩方や友人諸氏に恵まれたと感謝している。
晩年まで児玉氏やロッキード事件に関して取材依頼を受けるも、沈黙を守った。
「週刊新潮」2025年3月13日号 掲載