「40代なのに老害」兆候のある人が始めたい習慣
最近、老害を非難する声のみならず、「老害になりたくない」という声も、大きくなっているように思います(写真:takeuchi masato/PIXTA)
あれもこれもと心配ごとが多すぎて、身動きがとれなくなっているのが現代人。どうしたら、不安に囚われることなく、「今、この瞬間」を全力で生きることができるのでしょう。
新著『考えすぎないコツ』では、禅僧であり世界的な庭園デザイナーでもある枡野俊明さんが、「頭をからっぽにして、心を無の状態にする」ためのヒントを解きます。
本稿では、同書から一部を抜粋してお届けします。
「自分が不要になる日」が恐ろしい
老害。自分が築き上げた立場や地位にしがみつき、若い人たちに譲ろうとしないシニアをそう呼びます。
最近、老害を非難する声のみならず、「老害になりたくない」という声も、大きくなっているように思います。
シニアと呼ぶにはまだ早い40代にも「知らず知らずのうちに、若い世代の活躍を妨げているのではないか」という恐れがある。こうした心情はどこからやってくるのでしょう。
生物学的に見れば「老い」は「死」に近づくことを意味しますが、恐ろしいのは死だけではありません。時代が求めるものとズレが生じ、自分が「不要なもの」になるかもしれないという不安が、老いをより恐ろしいものにしているのではないでしょうか。
例えば、テクノロジーの進展はいつの時代も大半のシニアを置き去りにしてきました。18世紀の産業革命のとき、機関車が走り始める以前と以後の仕事では、大きな隔たりがあったはず。いくら「昔の仕事はこうだった」とシニアが強弁しても、若者は「今と昔は違う」と一蹴したでしょう。
AIが日常に入り込んできている現代においても、同じことが起きているに違いありません。老害になりたくないと努力する人にも、自分が老害になるはずがないと油断している人にも、若さにあふれ今まさに老害を批判している人にも、平等に「老い」は迫っているのです。
しかし、老いは本当に「恐れる」べきものなのでしょうか?
確かに、単純な能力を比較するなら、シニアは若者にかなわないでしょう。最新のテクノロジーを使いこなし、新しい価値を創造するのは、いつの時代も若者の役割です。
それでも、シニアの役割がなくなるわけではないと、私は思います。若者の役割とシニアの役割は、別物だからです。
「閑古錐(かんこすい)」という禅語があります。
閑古錐とは、使い古されて、先がまるくなった錐のことです。新しい錐は先がするどく尖り、すばやく穴を開けられる反面、使う人を傷つける恐れもあります。それに比べると古錐は、穴を開けるのに時間は少々かかるかもしれませんが、けがをする心配は少ない。
2つを比べて、どちらが良い悪いと即断できる人はそういないでしょう。新しい錐にも古い錐にも役割がある、居場所がある。それでいいのです。
同じことが人間にもいえます。
確かに、年をとれば体力は落ちる。頭の回転は遅くなり、記憶力も落ちる。職場でも、新しい仕事を任されるのは若者で、自分は後方支援に回される。かつてのように働けない境遇を寂しく思う人もいるでしょう。
かといって、頼まれもしないのに若者にアドバイスをしたり、「自分はまだできる、今どきの若いものには負けない」などと自分の立場や地位に固執すると、それこそ老害呼ばわりされるのがおちです。
老いたものには、老いたものとしての価値があるのです。その価値を早いうちから見つけられたなら、老いは恐ろしいものではなくなる。そうは思いませんか。
「何もしない」のも年長者の役割
そもそも「閑」とは「心安らいだ」状態のこと。禅の世界でも、修行を積んで円熟味を増した僧侶は閑古錐と呼ばれ、尊敬の対象です。職場においても、閑古錐として自分が果たすべき役割を見つけられたなら、老害呼ばわりされる心配もないでしょう。
若者が自分から頼ってくるまでは、シニアは出しゃばらず、「何もしない」でいいと思います。若者が自分で考え、工夫し、失敗を繰り返しながら成長していくのを見守りましょう。
それに、若者には若者なりに大事にしている仕事のやりかたや価値観があるのです。それを理解しないまま「それは違う!」「こうやってみたら?」などと自分の意見を押し付けても、若者はまず耳を貸しません。
しかし、若者が本当に困って、あなたを頼ってきたら、話は別です。
まずは、自分の意見を述べる前に、若者の話をよく聞くことです。
その後で、
「昔、似たような仕事で苦労をしたことがあってね」
「あのときは自分ひとりで終わらせようと頑張ったんだけど、その結果、多くの人に迷惑をかけてしまったんだ。今思えば、早めに白旗をあげて、周りに助けを求めればよかったかもしれないね……」
と、自分の経験を述べるのです。
こうしなさい、ああしなさいと、仕事の「答え」を授けることはできなくてもいいと思います。
そもそも、そんなことができるとは思わないほうがいい。経験豊富なシニアにできるのは例えば若い人の「心情」に寄り添った話ができることです。若者が若者なりに考えるためのヒントや、「悩んでいるのは自分だけじゃないんだな」と思えるよう自分の失敗談を話すことではないでしょうか。
それが閑古錐の円熟味です。
同世代とつるんでもいいことはない
どうしたら、閑古錐になれるのでしょう。
私の経験則から言えるのは、常に心を開き、社会との関わりを持ち続けることだと思います。
特に、そのことを忘れて定年を迎えた男性は、心にぽっかりと穴が空くことが多いようです。悠々自適といえば聞こえはいいですが、仕事にかわる生きがいを見つけられないと、そうなるのです。
「すっかり歳をとったなあ」とひとりぐちりながらテレビをみて、たまに外出すると思えば、同世代の男性とばかりつるみ昔話をする。これは実につまらない。心に穴があくのも当然でしょう。
一方で、定年後もまだまだ社会の役に立ちたいと願い、若い人たちと行動をともにしている人もいます。何かするといっても仕事とは限りません。
「一日不作 一日不食(いちにちなさざれば いちにちくらわず)」
一般的に「働かざるもの食うべからず」と訳される言葉ですが、その訳は適切ではないと私は思っています。働くことばかりが人の「なすべきこと」ではないからです。
「なすべきこと」は、ボランティア活動かもしれませんし、先祖から受け継いだ畑を耕すことかもしれません。いずれにせよ、自分がなすべきことをしたい、誰かのために自分を役立てたいと考えて行動している人は、生きがいを失うことも、老害になることもないのです。
そのためにも、40代のうちから自分の力を、自分のためではなく、これからの社会を背負う若者たちのために使うことを意識してみてください。
シニアのなかには、若者と関わるのが生きがいだと明言する人もいます。
例えば、教育機関で教える人もいれば、学生と一緒に楽器を演奏している人もいる。彼らは自分の知恵や経験を惜しみなく若い世代に伝えています。
若者に「教える」だけではありません。彼らは若者に「教わる」姿勢も持っています。自分だけの世界に閉じこもらず、むしろ若者たちが見ている広い世界に連れ出してもらうのです。
教わる楽しさに目覚めたら、しめたものです。
将棋教室に通えば、小学生にもこてんぱんにやられるかもしれませんが、それもまた新鮮。いきいきとした老後になるか、内へ閉じこもる老後になるか。大きな境目は「教わる」姿勢です。
そのためにも、日頃から新しい世界に目を向けることです。きれいなものに触れたら「ああ、きれいだな」と心を動かし、面白いことがあれば「あれ、面白かったよ」と誰かに伝えましょう。
わからないことがあれば「わからないから教えて」と、若者が相手でも頭を下げること。これができれば、若者とも会話が弾みますし、若者の価値観や考えかたにも触れられるでしょう。
何歳になっても、よく見る、よく聞く、よく学ぶ。老害を防ぐ特効薬があるとしたら、これだと思います。
教えをこうのに、年齢や地位は関係ありません。
肩書の外れた「ただの人」に戻る勇気を
ところが、見栄やプライドが邪魔をする人がいるのは、残念なことです。
「年下に頭をさげるなんて、いやだ」
「今更勉強するなんて、恥ずかしい、バカにされる」
なぜ?と思うのですが、こんなことを口にするシニアが本当にいるのです。こういう態度では、外の世界に出ていっても煙たがられるでしょうし、学べるものも学べません。
特に、定年を過ぎて職業や役職の肩書が外れたら、もう「ただの人」です。
社長だろうが医者だろうが、弁護士だろうが、現役時代の肩書など、老後の生きがいの足しにはなりません。
いいえ、本来はどんな人も始めから「ただの人」なのだと考えるべきなのでしょう。人は、誰かに肩書を与えられ、その肩書にみあった人間であろうとしているうちに、肩書が自分の本質だと錯覚してしまうのです。
そんな肩書が外れるということは、生まれたままの自分に戻るということ。仏教ではその姿を「如是(にょぜ)」といいます。
肩書に未練を残したまま生きるのか、新しい人生を選び学び続けるのか。閑古錐とは、勇気をもって後者を選んだ人でもあるのです。
(枡野 俊明 : 「禅の庭」庭園デザイナー、僧侶)