中居騒動でフジが露呈「日本的組織」の根深い問題
中居正広さんの女性トラブルに端を発し、フジテレビが追い詰められている(写真:白熊/PIXTA)
フジテレビが開局以来の危機に揺れている。
人気タレントの中居正広氏が女性とのトラブルを「女性セブン」などの週刊誌に報じられたことを機に、フジテレビの幹部がトラブルのもとになった会食の場を意図的に設けていた可能性が浮上してきたからだ。
海外メディアも積極的に報じ始めた
1月14日には米投資ファンドの「ダルトン・インベストメンツ」とその関連会社が、フジ・メディア・ホールディングスの取締役会に対して、「われわれは憤慨している」などと強い調子の書簡を送付。第三者委員会の設置や再発防止策の策定などを求めた。
すでに海外メディアが騒ぎ始めており、フランスの大手日刊紙「Le Figaro」が「日本のボーイズグループの元スター、『性的問題』でテレビ番組から外される(Une ex-star d’un boys band japonais écartée des plateaux télévisés pour « un problème sexuel»)」という見出しの記事を出し、ジャニー喜多川氏の性的虐待の話とともに紹介した。
その他にも、アメリカの金融系通信社の「Bloomberg」などが前述の投資ファンドの書簡と絡めた報道をしている。
フジテレビも記者会見を実施、しかし…
フジテレビは1月17日、港浩一社長が記者会見を行ない、改めて週刊誌の記事にある幹部の関与を否定し、第三者が入る調査委員会を新たに設置することを明言したが、はたしてどこまで真相に迫れるのかは不明だ。
そもそも、記者クラブ加盟社しか参加できず、映像配信もないクローズドな会見に批判の声が上がっている。
このようなエンターテインメント業界における類似の事例としては、大物映画プロデューサーであったハーヴェイ・ワインスタインによる性暴力、性的虐待の事件が思い浮かぶ。
ワインスタインは、自身が設立した新興プロダクションの成功によって、映画業界に多大な影響力を持つようになったが、2017年にニューヨーク・タイムズやニューヨーカーの記事で会社の女性スタッフや、若い女性俳優などに性的暴行や虐待を繰り返していたことなどを暴かれた。
当時の記事によれば、セクハラ告発者の女性8人と金銭的和解を行なったというもので、口止め料を支払い守秘義務を含む示談契約を結んでいた例もあった。そのため長年発覚しなかったという。
その手口は、仕事と偽って自社の事務所やホテルの部屋に、複数の人が集まるミーティングやパーティが開かれると思わせて呼び寄せ、いざ到着するとそこにはバスローブ姿のワインスタインだけがいて、マッサージや性行為を要求するというものであった。
「#MeToo運動」が世界的な運動に発展していくきっかけとなった事件であり、覚えている人も多いだろう。
ワインスタイン事件以降、絶大な地位と権力がある人物が、その立場を悪用したときに何が起こるのか、なぜ性的な嫌がらせや性的虐待が企業や業界、ひいては社会において野放しにされてしまうのか、といった問題意識が人口に膾炙し始めた。
そして似たような被害を受けた人々が積極的に告発をするようになった。この一連の現象は「ワインスタイン効果」と呼ばれている。
中居騒動でも「ワインスタイン効果」は起きるのか
もし、今回の中居氏のトラブルが週刊誌の報道の通り、フジテレビ幹部のとりなしと関係するもので、同様の行為を組織として、あるいは個人ベースでも相応の役職者が容認していたのであれば、とてつもない衝撃が走るだろう。
一般に、テレビ局は映画会社よりも企業規模が大きいため、相当数の人々がこの異常な慣習を知っていたことが容易に想像できるからだ。
だとしたら、なぜ週刊誌が取り上げるまでスキャンダルが表に出ず、その後、多くの報道が行われるようになっても、暖簾に腕押しといったような鈍い反応しか返ってこないのか。以前、筆者はジャニーズ問題でも同様の指摘をした(「日本的な通過儀礼」ジャニーズが他人事でない訳)。
とくに日本では、企業などの社会組織が「運命共同体」としての性格を帯びることが密接に関係している。これは社会学者の小室直樹が言っていたことである。
小室は、日本の社会組織は「運命共同体的性格」を持ちやすく、さらに「共同体構造は、天然現象のごとく不動のものにみえてくる」と述べ、「共同体における慣行、規範、前例などは意識的改正の対象とはみなされず、あたかも神聖なるもののごとく無批判の遵守が要求される」とした(『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』ダイヤモンド社)。
「日本では、企業は経営者と従業員との運命共同体である。(略)共同体は彼らの社会生活のすべてであり、独特のサブカルチャーを発達させ、一種の小宇宙を形成する」――共同体のメンバーになると、次第に共同体の外部に対する敏感さが失われ、関心のほとんどが内部に集中するようになってしまう。
そして、仮に世間を震撼させる不祥事が起こっても、内部にばかり目が向いているので、まず共同体が求める要請が絶対視され、犯罪行為ですら黙認される事態が起こり得るのだ。
やがて内部でどれだけ異常な言動がなされていても、感覚的にはおそろしく鈍感になっていくのである。そうなると、告発するという発想そのものが消え失せるのだ。
戦時中の日本軍では、似たような状況は多発していた
この二重規範(ダブルスタンダード)とでもいうべき日本の特色は今に始まった話ではなく、かつて評論家の山本七平が旧日本軍の内務班で体験したリンチと非常に似通っている。
すさまじい暴力が横行していた一方で、暴力の禁止が厳命されていた矛盾である。
たとえば私が入営したのは、「私的制裁の絶滅」が厳命されたころで、毎朝のように中隊長が、全中隊の兵士に「私的制裁を受けた者は手をあげろ」と命ずる。
中隊長は直属上官であり、直属上官の命令は天皇の命令である。軍人は忠節を尽くすのが本分だという。忠節とか忠誠とかいう言葉が、元来は、絶対に欺かず裏切らず、いわば懺悔の対象のような絶対者として相手を見ることなら、中隊長を欺くことは天皇を欺くこと、従って軍人勅諭に反するはずである。
だが昨晩の点呼後に、整列ビンタ、上靴ビンタにはじまるあらゆるリンチを受けた者たちが、だれ一人として手をあげない。あげたら、どんな運命が自分を待っているか知っている。従って「手を挙げろ」という命令に「挙手なし」という員数報告があったに等しく、そこで「私的制裁はない」ことになる。
このような状態だから、終戦まで私的制裁の存在すら知らなかった高級将校がいても不思議ではない。(一下級将校の見た帝国陸軍/文春文庫)
つまり、実際に目の前に理不尽な暴力が存在しているものの、それは内部的には実数としてカウントされる出来事とは把握されず、外部に訴え出ることなどは考慮の外となる。
この二重規範は、今日、日本の企業内で起こる諸問題においても変わらない。今回報じられた"システム"のエピソードが事実であり、何ら改善されず放置されていたとすれば、それは決して特殊なものではなく、前述した日本の多くの社会組織が抱える共同体的悪夢の一例といえるだろう。
中居氏のトラブルから始まったフジテレビをめぐる疑惑がここまで人々の高い関心と怒りを誘い、とりわけ事案の重大性に対する認識の薄さと自浄作用のなさに批判が集中しているのは、身近な職場などで同種の根本的な問題が威圧や暴言といったハラスメント、性的嫌がらせなどを温存させていることに気付いているからなのだろう。
その他の画像
中居正広さんが公式サイトに掲載したお詫び文。「当事者以外の者の関与」はないと明言した(画像:本人の公式サイトより)
(真鍋 厚 : 評論家、著述家)