郄木三四郎インタビュー 前編

 DDTの現役レスラーとして活躍しながら、株式会社CyberFight(サイバーファイト)代表取締役社長を務めてきた郄木三四郎。「大社長」の愛称で親しまれてきたが、今年6月1日より副社長となり、7月21日、DDT両国国技館大会を最後に無期限休養に入った。

 今年1月に休養を宣言し、引退ロードならぬ「無期限休養ロード」で、KO-D無差別級王座への挑戦、前代未聞のワンマッチ興行、物議を醸した都電プロレスなど、数々の名勝負を繰り広げ、最後まで"プロレスラー郄木三四郎"の勇姿を見せてくれた。そんな郄木副社長に、無期限休養ロードの舞台裏を余すところなく語ってもらった。


7月21日の大会を最後に無期限休養に入った郄木三四郎 photo by 林ユバ

■「肩書はなんでもいい」

――まずは、無期限休養を決めた理由をお聞かせください。

郄木三四郎(以下、郄木):いろいろなことが重なったんですけど、ひとつは体調です。もともと不整脈を持っていて、2020年に冷凍アブレーション手術をしました。カテーテルを入れて、心臓のよくないところをマイナス60℃くらいの冷凍処理で焼くんです。それで治まっていた不整脈が、昨年末から再び出始めて、日常生活を送るのもきつい状態になったんですよ。「再手術をしなくちゃいけないのかな」と思いましたし、ほかのいろんな数値もよくなかった。それで、一度プレイヤーを休まないと業務ができないと判断しました。

 もうひとつは、後継者問題です。DDTは27年間、僕が舵を切ってきたので「自分に何かあったらどうするんだろうな」と。サイバーファイトという会社全体としても規模がかなり大きくなってきていて、すべての経営判断を取りまとめるのが厳しくなってきていたので、休養することにしました。

――6月1日、サイバーエージェントの副社長だった岡本保朗さんがサイバーファイトの社長に就任。郄木さんは副社長になりました。

郄木:本社にも相談していたなかで、「よければ、岡本が経営の部分を見ましょうか」と言っていただいたんです。僕も年齢が年齢だし(54歳)、岡本さんはまだ49歳なので、全体のところを岡本さんに見ていただいて、僕は今までどおりDDT、東京女子プロレスを見ようと。いろんなことが軽減されて、経営判断がしやすくなりましたね。岡本さんにはすごく感謝しています。

――「大社長」という愛称でやってきましたが、副社長になることに抵抗はなかったですか?

郄木:僕はどちらかというとクリエイターであり、プロデューサーだと思っているんですよ。もちろん経営もできたのでやってましたけど。

――「大社長」と呼べなくなって、戸惑うファンもいるかと思います。

郄木:僕の信条は「アイディアを出し続ける」なので、肩書はなんでもいいんですよ。今でも「大社長」と言ってくれる人もいますけど、「副社長」とか「大副社長」と呼ぶ人もいるんでエゴサーチはやりづらくなりました。今は「大副社長」「大社長」「郄木社長」「郄木副社長」で検索してます(笑)。

――「降格になった」という感覚はありませんか?

郄木:まったくないし、むしろ感謝しています。だって、年商7500億円のサイバーエージェントという大企業の副社長が、プロレス団体の社長になるんですよ? 本当にすごいことだなと思います。あと、サイバーエージェントは優秀な方が多い。岡本さんとサイバーファイトの方向性や経営の話をしていても、新たに気づくことや学びがたくさんあります。

■上野勇希が持っていたKO-D無差別級王座への挑戦

――無期限休養ロードについて伺います。まずは6月5日、新宿FACE大会で上野勇希選手が持っていたKO-D無差別級王座のベルトに挑戦しました。場外乱闘あり、凶器あり、ドラマティックドリーム号(自転車)での攻撃ありと、いい意味でハチャメチャな試合で、松井幸則レフェリーが「タイトルマッチの威厳は!?」と叫んでいたのが印象的でした。

郄木:個人的には「上野としかできない、タイトルマッチらしいことをやろう」と思っていたんですけど、上野はDDTのイメージと照らし合わせて、ああいうものを求めていたんだろうなと試合中にすごく感じました。そこに乗っかった感じですね。ああいうハチャメチャな展開は僕の"土俵"でもありますし。

 今の若い人たちも、DDTをそのように捉えているはず。正直、あれを見て「タイトルマッチの威厳は?」と言っているファンはいません。けっこうエゴサーチしましたけど、そんな声は皆無でした。お客さんのニーズもそのように変わってきているのかなと思います。

――"DDTらしさ"とは、どういうところにあるのでしょうか?

郄木:旗揚げ当初はもっとガチガチのハードヒットな感じの団体でしたね。でも僕は、「プロレスの可能性は無限であり、すべてを包括するものがプロレスである」と思っています。プロレスは世界中にあって、メキシコにはルチャリブレ、アメリカにはアメリカンプロレス、日本にはジャパニーズスタイルやデスマッチもある。プロレスに多様性が求められるなかで、それに応えている国は日本だけなんじゃないかなと思うんです。

 個人的に、DDTはプロレスの可能性を追求している団体だと思っているので、上野とのタイトルマッチのような試合も引き出しのひとつにある。ルールがある以上、そのなかでやらなくちゃいけないから、レフェリーは「プロレスの威厳」とか言うでしょう。でも、反則は5カウントまで許されるし、場外カウントは20まで。ルールのなかだったら何をやっても許されるのがプロレスであり、そこに曖昧なところが重なることで魅力のあるコンテンツになると思うんですよね。

――8月25日、後楽園ホール大会で青木真也選手にベルトを奪われましたが、上野選手は本当にいいチャンピオンだったと思います。

郄木:あいつは今、プロレスをやっていてすごく楽しいでしょうね。それを見たお客さんも楽しんでくれるのが一番じゃないでしょうか。プロとしては、お金を払ってくれたお客さんを満足させなければいけなくて、その手法はなんでもいいですけど、やっぱりプロレスラーは普通の人にはできないことをやらなきゃいけない。普通はドラマティックドリーム号に撥ねられたり、プラケースでガンガン叩かれたりしたらケガします。だけど、あえてそれを受けてすごみを見せるのがすごく大事なことだと思います。

――新チャンピオンの青木選手についてはどう評価していますか?

郄木:青木さんって、今のDDTの"強さ"を量る上でのひとつの指標になっていると思うんです。強さという部分で申し分ない方が、DDTのチャンピオンになった。そういう人が遠藤(哲哉)に対してもそうだし、「俺たちは強い」と言ってくれたことで、DDTの強さが証明された印象はあります。「DDTってお笑いの団体でしょ?」とか言われますけど、そうじゃないということが立証されたと思いますし、青木さんにはDDTの強さという一面を見せていってほしいと思います。あと今、飯野(雄貴)がすごく伸びてきていますね。

――飯野選手は9月8日、MAO選手を破り、DDT UNIVERSAL王座を初戴冠しました。

郄木:飯野は「フェロモンズ」というユニットで活躍する前からキャラクターがすごく濃くて、でき上がっていた人間なんですよ。とにかく24時間練習しているような人間です。メディア志向も強くて、『ノーサイド・ゲーム』(2019年にTBSで放送されたドラマ。飯野雄貴役)に出演したり、11月には舞台にも出ます。体も大きくて、世間一般の方が持つプロレスラー像に近いので、彼がUNIVERSALのチャンピオンになったことで、またひとつ新しいものが生まれる気がします。

――MAO選手もすばらしいチャンピオンでしたね。

郄木:MAOはDDTを愛する気持ちが人一倍あるし、自分がやっていることにすごく自信を持っている。彼がチャンピオンだった時代は、DDTのプロレスが海外まで届いたと思うので、上野とかMAOとか飯野が今後のDDTを作っていくんじゃないかと思います。

■前代未聞の「実家プロレス」

――6月21日、佐藤光留選手の岡山県のご実家で試合をされました。その名も「実家プロレス」。

郄木:ああいうシチュエーションを用意してくることが、「佐藤光留ってDDTの遺伝子を持った人だなあ」という感じですよね。自身の個性もありながら、パンクラスの遺伝子や鈴木みのるさんの遺伝子も持っている。普通なら実家は晒したくないでしょうし、「DDTをくぐり抜けてきた人だなあ」と感じました。

――「ホームでやる」という発想から、「本当のホーム」ということで実家だったんですよね。お客さんは、スポンサー枠の2人を含む合計7人だけでした。

郄木:なかなか狂ってますよね(笑)。僕は佐藤家の間取りをほぼ把握したつもりでいますけど、何度もできるわけじゃない会場を用意してくれたのは、すごく嬉しい。人の家で闘うという貴重な体験ができました。

――以前、一般宅で闘ったことはありますよね?

郄木:実家ってまた別なんですよ。乱闘しながらも、家に入る時は「お邪魔します」って言いますし。育ちが出ますよね。僕もそんなに育ちが悪いほうではないので、着替え部屋みたいなところに入った時に、ちゃんと菓子折りを渡しましたから。やっぱり実家は特別で、その人のパーソナルが浮き彫りになります。

――佐藤選手がお母さんのことを「ママ」と呼んでいたことに驚きました。

郄木:あれは一番衝撃的でしたよ。「意外に"いいとこの子"なんだな」と。ご両親の職業は知らないですけど、「芸術家みたいな一面がある家庭だな」とちょっと思いました。

――お父さんは、趣味がカメラなんですよね。

郄木:お母さんのヌード写真もありましたけど、普通は家に飾らないですよね(笑)。そういう"アート味"を節々に感じました。

――2011年に、DDTのブランドのひとつだった「ハードヒット」という"城"を佐藤選手に託しました。今、どういう思いで見ていらっしゃいますか?

郄木:一国一城の主になると、プロレスに対する考え方や姿勢も変わるんですよ。彼もDDTのリングに上がっている時はただのプレイヤーだったんですけど、今は全体を考えられる、バランス感覚がある選手になったなと思いますね。主張も強いですし。逆に強くないと、団体を持つことはできません。

(中編:「都電プロレス」炎上の真相と、ササダンゴ・マシンとの「カオス」なワンマッチ>>)

【プロフィール】
■郄木三四郎(たかぎ・さんしろう)

1970年1月13日、大阪府豊中市生まれ。1997年にDDTプロレスリングの旗揚げに参加。2006年1月、DDTの社長に就任。2017年にサイバーエージェントグループに参画。2020年9月、サイバーファイトの代表取締役社長に就任。2024年6月1日、同社副社長に就任。「大社長」の愛称で現役レスラーとしても活躍してきたが、2024年7月21日の両国国技館大会を最後に無期限休養に入った。175cm、105kg。X(旧Twitter)@t346fire