能生中2年の全国中学校相撲大会で団体準Vの大の里(右)(中央最後方は白熊=村山智明氏提供)

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 強くなりたい―。伸び悩んでいた大の里はその一心で、石川から新潟・能生中への相撲留学を決断した。中学入学時の体格は177センチ、100キロ。当時の村山大洋コーチ(32)は「(体格の割には)まだひょろ長かった。力がなく、前に出られなかった。1学年上の高橋優太(現幕内・白熊)にほとんど負けていた」と回想する。

 だが、四股など基礎運動に対する真剣度が違った。スクワットを他の部員に隠れて1000回やることもあったという。田海哲也総監督(63)は「石川から留学している自負を感じた」。何より素直な気持ちを持っていた。指導を聞き入れ、スポンジのように吸収した。

 環境面も成長を促してくれた。私生活への指導は厳しく、大の里は「本にできるぐらいの地獄」と冗談めかしながら当時を振り返る。のどかな能生町にはコンビニは数えるほどしかなく、携帯電話も自転車の使用も許されなかった。中学時代の娯楽といえば、寮にある相撲雑誌を読むことと、能生海水浴場で泳ぐことくらい。申し合い稽古を50〜60番こなした後、稽古場から約3キロ離れた寮まで走って帰る毎日だった。相撲に集中しながら規律正しく過ごし、豊かな人間性を育んだ。田海総監督は「生活にメリハリをつけられ、あんなに学校を楽しいという生徒は初めてだった」と褒めた。

 新潟・海洋高に進学すると1年で全国高校総体準優勝。だが、ここで壁にぶち当たった。主将だった高3時の十和田大会こそ制したが、全国総体では結果を出せず。埼玉栄で高校横綱になった現幕内・北の若には1度しか勝てなかった。

 大相撲からの誘いもあったが、悩んだ末に決めたのは大学で己を磨き直すこと。田海総監督は「タイトル(全国V)が2〜3つあったら、プロ入りしていたと思う」。選んだのは多くの海洋高OBがいた日体大。なにより日体大・齋藤一雄監督(56)の口説き文句に、心を揺さぶられた。(山田 豊)