「地味で質素な老婆」が1人暮らしになった途端、「恋愛依存」に…あらわになった母親という生き物の「業」

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直木賞を受賞した『凍える牙』をはじめ、30年以上にわたって多くの小説を発表してきた乃南アサさん。

令和になったいま、乃南さんが改めて書き記した「家族」の在り方を書評家はどう読み解くのか?

今回は吉田伸子さんによる書評を公開します。

乃南アサ『マザー』

アニメのような三世代家族から独立して家庭を持った青年が、コロナ禍の間に立て続けに身内が亡くなった実家に久々に帰る「セメタリー」、過労によるうつ病で医師の仕事をやめて離婚した兄から、その身を案じながら亡くなった母の一周忌を前に再婚の知らせが届く「ワンピース」、娘が嫁いで一人残された高齢女性が、やがてマンション内で鞘当てが起きるほどに華やかに変貌していくさまを管理人の目から見た「アフェア」など、「母」という名に隠された一人の女性としての“本当”の姿を描き出す、直木賞作家渾身の家族小説!

タイトルが「マザー」であるワケ

乃南アサさんの新作『マザー』は、五編からなる短編集で、そこに登場するのは五人の母親である。なのに、何故、タイトルは「マザーズ」ではなく「マザー」なのか。

それは、五人それぞれが、あなたの、そして私の母親でもあるからだ。主語が大きい母親、ではなく、オンリーワンの母親、だからではないか。本書を読みながら、そんなことを思っていた。

「セメタリー」は、田舎町の、まるで「ちびまる子ちゃん」のような大らかで明るい家風のもとで育った岬樹の、四年ぶりの帰郷が描かれる。笑いの絶えない実家での日々は、ひとえに岬樹の母・照美の人徳によるものだ。岬樹が大学進学のために上京してからは、脳梗塞で倒れた後の祖母の介護も、認知症を発症した祖父の介護も、照美が一手に引き受けてきた。義父母なのに、笑顔を絶やさず、実の親のように親身に介護をする照美は、まさに岬樹の家の太陽だった。

「ワンピース」は、ストレートで国立大学の医学部に進学した兄を持つ冴子の視点で語られる。研修医を終えた後は大学病院の外科医として勤務し、その翌年には結婚。父親亡き後も実家で母親と妻と暮らしていた兄は二人の娘にも恵まれ、傍目にも順風満帆の暮らしだったのに、職場のストレスによりうつ病を発病したあたりから、その暮らしは狂い出した。入退院と休職復職を繰り返し、やがて五十となった兄は、遂には医者であり続けることを諦め、無職に。

離婚後も、兄の元に残った娘たちは既に独立していた。

結婚後も離婚後も、ずっと兄のそばにいて、兄の面倒を見続けていたのは母だった。その母が亡くなったことで、冴子は兄から遺産の相続放棄を持ちかけられ、それに応じるのだが、母の一周忌が近づいたころ、久しぶりに受けた兄からの電話は、再婚を知らせるものだった。兄が再婚した相手とは──。

周囲の視点から描かれる「母親」

「ビースト」は、親の反対を押し切って、好きな男について家を出て行った娘・和美が、父親の違う息子二人を抱えたシングルマザーとなって、実家に戻ってくる話で、語り手は和美の母・美也子だ。

「エスケープ」は、産前、胎内で母親と父親の声を聞いていた上川陽希の物語で、最終話である「アフェア」は、定年後に妻から離婚をきりだされ、今は住み込みでマンションの管理人として働く六十代半ばの滝本の視点で語られる、マンションの住人の話だ。娘と二人暮らしだった老婦人は、娘が結婚して家を出たあと、突然、マンション内に暮らす男性と浮き名を流すようになる──。

五人の母親が登場すると書いたが、視点人物が母親となるのは、「ビースト」だけで、他は息子、娘、そして登場する母親と顔見知りの男が視点人物となる。

姑からは「照美さんには、笑いの神さまがついてるんだわね」と言われ、一家の精神的な支柱だったはずの母が、父親の死後、「死後離婚」をするに至った理由が明らかにされる「セメタリー」は、息子という男性視点で読んだ場合と、娘という女性視点で読んだ場合とで、受け取る印象ががらりと変わるはずだ。岬樹同様、息子視点で読めば、照美がしたことは理解しがたいかもしれないが、娘視点、それも結婚して妻という立場にある娘視点で読めば、照美の肩をそっと抱き寄せたくなるのでは、と思う。

うつ病を発症した息子が心配で、その手を離すことができぬまま年老いてしまったのか、それともとっくに共依存だったのか、「ワンピース」の母親の姿は切ない。けれど、物語はそこで終わらない。兄が再婚した相手、というのがミソで、ここが「ワンピース」の肝だ。その相手が分かった瞬間の冴子の戦慄は、読み手のものでもある。

「ビースト」は、自分の子どもにいいように食い物にされる母親が描かれるのだが、そこには母親だからこそ、騙されても騙されても、どこかで娘を信じたいという気持ちを手放せない母親の、その哀しさが伝わってくる。

母親という生き物の「業」

こうやって書いていくと、本書で乃南さんが五話それぞれに趣向を凝らして、「マザー」を描き出しているのがわかる。じわりと怖い系の二話(「ワンピース」と「エスケープ」)と切ない系の三話(「セメタリー」、「ビースト」、「アフェア」)、そのどれにも共通しているのは、五人の母親に対する作者のまなざしだ。息子から離れられなかった母親を責めるでなく、自分勝手な娘を突き放すことができない母親を庇うでもなく、呆れるでもなく、そのまま、ありのままを描き出す。

彼女たちをジャッジすることなく、ただただ母親という生き物の「業」を描き出すことで、逆に、母親という存在に対しての、静かな肯定になっているのではないか。私はそう感じた。そして、そこにあるのは、二十一世紀になっても、まだまだ家族や家庭の中で尊重されることなく、当たり前のように奉仕させられている母親という女性たちへのエールなのではないか。

そのことが最も色濃くあらわれているのが「アフェア」で、管理人の目から見ても「地味で、質素な婦人」だった彼女が、何故、狂い咲いたかのように次から次へと、手当たり次第とも思えるような「恋」に傾いて行ったのか。

マンションの住民たちから、「色狂い」とさえ揶揄されるような変貌を遂げたのか。

偶然、大型商業施設の横に佇む、派手なコートを纏った彼女を見かけ、滝本は思わず声をかける。「こんなところで、何してるんです? 寒いでしょう」と。滝本の脳裏を掠めたのは「昔よく耳にしたパンパン」だ。そんな滝本を見透かしたように、彼女は言う。「売春でもしてるとお思い?」と。そして、彼女は問わず語りに語る。若い頃に夢見たことを。そしてその夢が「簡単にぺしゃんこに」なったことを。

さらりと書かれているこのシーンが、本書の中ではひときわ強く印象に残った。そして、気づく。作者がエールを送っているのは、母親という名の女性たちなのだ、と。母親という呪縛に囚われている、全ての女性たちなのだ、と。読後、深い余韻が残る一冊である。

乃南アサ(のなみ・あさ)

1960年、東京生まれ。'88年に『幸福な朝食』が日本推理サスペンス大賞優秀作となる。'96年に『凍える牙』で直木三十五賞、2011年に『地のはてから』で中央公論文芸賞、'16年に『水曜日の凱歌』で芸術選奨文部科学大臣賞をそれぞれ受賞。主な著書に『鎖』『しゃぼん玉』『いつか陽のあたる場所で』『ウツボカズラの夢』『ニサッタ、ニサッタ』『美麗島紀行』『六月の雪』『チーム・オベリベリ』『家裁調査官・庵原かのん』『緊立ち 警視庁捜査共助課』など。

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