「剛腕」堤康次郎が切り拓いた「未開の池袋駅」

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東に西武で、西 東武

池袋駅の山手線発車メロディは、この地に本拠を置く家電量販店ビックカメラのCMソングである。駅での使用は2024(令和6)年3月からと聞くが、前年にリニューアルした新バージョンの曲が流れる。以前のCMは、アメリカの讃美歌をテンポアップした旋律にのせて「♫不思議な不思議な池袋、東に西武で、西 東武」と歌っていた。まさに池袋駅は、JR線をはさんで東に西武鉄道が、対する西に東武鉄道がターミナルを構えているのである。

沿線に市街化をもたらした武蔵野鉄道

西武池袋線の基となった鉄道路線は、東京の多摩・豊島地域と埼玉県の飯能を結ぶ目的で計画された武蔵野鉄道だ。高田馬場駅の稿で触れた、西武新宿線の発端となる川越鉄道のルートから外れた飯能地区の有力者たちが出資して1912(明治45)年に会社を設立、1915(大正4)年4月15日に、池袋から飯能までの約44kmを一挙に開業させた。当初は蒸気機関車が客車を引いていたのだが、1922(大正11)年には所沢まで電化(3年後に全線電化)を実現している。

電車運転により運転間隔を短くしたサービスが可能となり、沿線の市街化が促進されてゆく。1923(大正12)年の関東大震災で被災した市民らが宅地を郊外に求める風潮も追い風となって、武蔵野鉄道は積極経営を展開した。郊外型遊園地の豊島園へ支線を敷設したり、石灰石の採掘輸送とハイカーを狙って1929(昭和4)年に飯能から先、吾野まで路線を延長、同じ年には村山貯水池のほとりをめざす支線も開いている。現在の西武球場前へ至る狭山線だ。

ところが、こうした積極策は昭和初期の不況で裏目に出てしまう。過大な設備投資が仇(あだ)となったうえ、川越鉄道から衣替えした(旧)西武鉄道(現在の西武新宿線)との競争もあって、1934(昭和9)年、武蔵野鉄道は事実上の破綻状態に陥ってしまったのだ。一時は料金滞納のため電力会社から送電制限を受け、通勤時の輸送能力が激減して混乱を招いたという。

堤康次郎の登場

そこに登場するのが、のちに一代で西武コンツェルンを築き上げる堤康次郎(つつみ・やすじろう)である。堤清二・義明の父だ。

大正末から昭和初期にかけて、堤はいまでいうデベロッパーの箱根土地(のちのコクド)を経営していたが、1924(大正13)年に武蔵野鉄道沿線の大泉村で「大泉学園都市」の分譲を始めた。東京商科大学(現一橋大学)を誘致して、高等教育機関を核とする文化的で良質な町づくりをめざしたのである。しかし東京商大は国立への移転を決め、計画は頓挫してしまう。大泉学園の宅地化が進むのは戦後になってからだ。

堤は、現在の小平市内でも学園都市づくりを推進した。東京商大予科と津田英学塾(現津田塾大学)を迎え、足の便をはかるために箱根土地傘下で設立したのが多摩湖鉄道である。1928(昭和3)年に国分寺−萩山間を、30年には萩山−村山貯水池(仮)間を開通させた。

こうした状況下で、堤は武蔵野鉄道の株を買い集めて経営権の掌握を企てる。1940(昭和15)年に多摩湖鉄道を武蔵野鉄道に吸収合併させ、大株主の根津嘉一郎らから武蔵野株を譲り受けて過半数を確保したうえで、社長に就任するのである。

現在の西武鉄道の原型が誕生

時局は太平洋戦に突入。非常措置として東京近郊の私鉄を統合する陸運調整がなされた結果、1943(昭和18)年には武蔵野鉄道社長の堤が(旧)西武鉄道の社長を兼ねることになり、1945(昭和20)年9月、(旧)西武は武蔵野に吸収される。新会社は一時「西武農業鉄道」と名乗るが、翌年に「農業」の文字を削って、ここに現在の西武鉄道が誕生したのだった。

戦時下の堤にこんな話がある。当時、東京都民の屎尿(しにょう)はトラックで河岸へ運び、船に積み替えて東京湾の沖に捨てていたのだが、燃料不足で船を動かせず、この方法が使えなくなった。困った都は、屎尿を鉄道で郊外の農村へ送り肥料とする、戦前にも一部で行なわれていた策の復活をはかった。話を聞いた堤は社内の反対を押し切ってこれを断行、屎尿を満載した列車が現在の西武池袋線と新宿線を走ったのである。

堤は同時に、食糧増産会社を設立して沿線の土地を買収し、野菜の生産にも努めた。西武「農業」鉄道の由来だ。列車による屎尿輸送は、1953(昭和28)年までつづけられた。

東武東上線の歴史

西武池袋線が、池袋駅の東側から目白方向へいったん南下したのち、おもむろに右カーブを描いて山手線を乗り越し西方へ向かっていくのに対し、駅の西側を北上して次駅の北池袋の先で左転回して西北をめざすのが東武東上線である。

この路線は、1903(明治36)年に設立申請がなされた東上鉄道を起源とする。当初の計画では起点を巣鴨とし、池袋から埼玉県の川越、寄居を経て群馬県の高崎・渋川まで、さらに第二期として新潟県の長岡へ至る、文字どおり東京と上州あるいは上越を結ぶ大路線として構想されていた。しかし資金調達に窮し、発起人らは東武鉄道社長を務める根津嘉一郎に株式を譲渡して仕切り直しをはかったのである。

池袋駅が起点駅に

根津新社長のもと東上鉄道は1911(明治44)年に設立をみた。このとき起点駅を巣鴨から大塚辻町(現在の東京メトロ新大塚駅付近)に変更、しかし工事着手時点では池袋に再度変更した。その間の事情を東武鉄道の社史は、前回ご紹介した豊島師範学校や立教大学、さらには成蹊実務学校などの開設に触れ、「学生や父兄らの池袋駅利用度が増してくると、この地に移住する住民も増え、小規模ながら商店街も形成されてきた」ため、としている。池袋の将来性を買ったのだろう。

1914(大正3)年5月1日、池袋から田面沢(たのもさわ;1916年廃止)までの営業を開始した東上鉄道の営業成績はまず良好に推移したが、経費節減や車両運用・諸設備改善などの合理化を目的に、社史が「異体同心の関係」と表現した東武鉄道と1920(大正9)年7月に合併する。ここに東上鉄道は「東武東上線」と、東武の一路線に組み込まれたのである。

路線のほうは、1925(大正14)年に寄居まで達したところで、以降の延伸を断念する。東京から上州(群馬県)をめざした当初の野望は果たせずに終わったのだった。

東に武蔵野、西 東横

関東大震災をきっかけに、交通の結節点で至便なわりに閑静な池袋周辺の人口は増加し、都市化が急速に進んだ。この時代、巣鴨監獄は司法省所管の巣鴨刑務所と名を改めていたが、地元にとってはもはや厄介物で、移転が望まれていた。しかし、刑務所機能は1935(昭和10)年に府中へ移り敷地の3分の2ほどが開放されたものの、残余部分は東京拘置所として引きつづき居座ってしまう。現在のサンシャインシティの場所だ。

一方、池袋駅東口前面をふさいでいた根津山の一部が切り拓かれて、1939(昭和14)年4月に護国寺までの道路が開通し、待望の東京市電が駅前まで乗り入れてきた。

翌1940(昭和15)年、武蔵野鉄道社長の堤康次郎は、東口駅前で営業していた百貨店「菊屋」を買収し「武蔵野デパート」とする。堤のライバル、東急創業者の五島慶太が渋谷に東横百貨店を開いたのに対抗すべく取得に動いたのである。

だが、戦時下でこのデパートは強制疎開取壊しとなり、仮店舗も空襲で焼けてしまう。それでも終戦後、テント張りの売店を開き、およそデパートにはふさわしくない古着や人工甘味料入りかき氷,飴玉など、手に入るものなら何でも売ったというから、すさまじい。

戦後の闇市からの再発展

戦後、東口・西口の周囲には、渋谷や新宿などと同様、闇市の光景が広がっていた。西武池袋線や東武東上線の沿線は農業地帯で、池袋には農産物を中心とした食料品、くわえて練馬・朝霞に進駐した米軍からの払下げ物資が大量に出まわったのである。

闇市から発展した長屋式マーケットが区画整理により淘汰されてゆくのは、東口では1949(昭和24)年ごろからだ。根津山が売りに出されたことから丘が完全に切り崩されて、路面電車の通る道の両側に、受け皿の一部となる建物が瞬く間に並んだ。戦前は、諸学校が立地する西口の賑わいが勝(まさ)っていたのだが、これを機に東口側も勢いを増してゆく。

戦災を受けた国鉄の駅舎は、東口は仮設ののち1948(昭和23)年完成の応急建築でしのいでいたが、隣接する武蔵野デパートは49年に「西武百貨店」と改名のうえ、バラック建てから鉄筋コンクリート造の本格建築に着手、52年9月にオープンさせている。

西口に目を転じると、財政難の国鉄が駅舎建設費用の一部を民間から募り、見返りに駅舎を店舗として部分使用させる、いわゆる“民衆駅”建設のスキームで、1950(昭和25)年に整備を完了した。ここに乗り込んできたのが五島慶太率いる東横百貨店であった。(つづく)

巣鴨監獄に根津山…チョー田舎に建てた池袋駅