セルジオ・メンデスさんのFacebookより

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 ブラジル音楽界の巨匠、セルジオ・メンデスさんは1964年以来、40回以上も来日した稀有(けう)な存在だ。

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 メンデスさんはボサノバやサンバといったブラジル音楽にジャズなど他の音楽を融合、アレンジしてヒットを生み出した。なかでも66年発表の「マシュ・ケ・ナダ」は世界的な人気を呼ぶ。曲名に覚えはなくても必ず耳にしているだろう。

「日本は第二の故郷」

 長年親交のあった音楽評論家の湯川れい子さんは振り返る。

「日本は第二の故郷、心が落ち着く、と語っていましたが、お世辞ではなかった。初来日の時、彼に別け隔てなく接した日本人の姿が印象に残ったようです。彼の人柄も日本に合った。しゃぶしゃぶをはじめ和食が好きで、六本木の『瀬里奈』はお気に入りでしたが、店の名前も覚えていました。さまざまな人と話をして思い出がある場所だからと言うのです。自宅のあるロサンゼルスでも会いました。現地に住む私の友人宅で産まれた秋田犬をもらい、フジと名付けて大切に飼っていた」

セルジオ・メンデスさんのFacebookより

 庭で日本のコイを愛でていたことも。部屋には抽象画家の吉原治良や久野真の作品を飾っていたという。

聴いて良し、踊って良しの名曲

 41年、ブラジル・リオデジャネイロ州生まれ。幼少期からクラシックピアノを学び、やがてジャズに関心を持つ。ジョアン・ジルベルトさんらが始めたボサノバの分野に転じ、60年代半ばから活動拠点をアメリカに移す。「マシュ・ケ・ナダ」で世界の有名人に。

 音楽評論家の安倍寧さんは思い出す。

「聴いて良し、踊って良し、の名曲。ボサノバにジャズなどの味わいが加わっていて、心に響き洗練されている一方、躍動感があった」

素晴らしい“アレンジ力”

 メンデスさんの役割は、作曲、編曲。バンドではピアノやキーボードを担った。

 音楽評論家の増渕英紀さんも思い返す。

「ビートルズの『フール・オン・ザ・ヒル』を原曲の魅力を損なうことなくブラジル音楽風にしたり、アレンジ力が素晴らしい。原点はピアニストでテクニックもあるがそれを前面に出さず、ラニ・ホールら女性ボーカルの声を生かしました」

 70年の大阪万博に招かれ公演。79年、「サマーチャンピオン」で、浅野ゆう子が出演する化粧品のCMに協力、同曲も評判になった。

 同79年には本誌(「週刊新潮」)の「掲示板」欄に登場。〈数年前に鍼を体験して以来、疲れをたちどころに取る“魔力”にとり憑かれました。どんなに公演がつまっていても、一度は必ず治療に行けるよう、スケジュールを割いてもらっています。おかげで、五反田の鍼医と昵懇になり、彼から教わった指圧を、私が通訳に施してやるほどの腕です〉とし、英語かポルトガル語で書かれたはりや指圧の本を紹介してほしいと率直に語りかけた。

「偉ぶらず丁寧な姿は全然変わらない。三國(清三)シェフと仲が良く、おいしいお店に連れて行ってもらっていましたね」(湯川さん)

「ソーラン節」をブラジル音楽調に

 84年のロス五輪向けに作った「オリンピア」が全日本プロレスの試合に使われるなど人気は続いた。メンデスさんの親日ぶりも変わらず、「ソーラン節」をブラジル音楽調にアレンジしたり、邦楽への関心も高い。2008年、世界のミュージシャンを迎えたアルバム「モーニング・イン・リオ」に日本からはドリームズ・カム・トゥルーを選んだ。

 ラジオDJで音楽評論家の山本さゆりさんは言う。

「吉田美和さんの太く低めの伸びやかな声を選ぶとは、日本の曲をよく聴いていた証しです。ヒップホップのアーティストと共演したり好奇心は衰えなかった」

 来日はコロナ禍で中断したが、22年に再開。新しいファンも増えていた。

 9月5日、83歳で逝去。今年、コロナウイルスに感染し後遺症に苦しんでいた。

 異なる文化、世代が自然に出会い、何かが生まれる過程を大切にした。日本もその貴重な場だったか。

「週刊新潮」2024年9月19日号 掲載