【追悼】小林邦昭さん 「虎ハンター」が破ったマスクは378万円 初代タイガーマスクとの伝説の攻防秘話 封筒にカミソリも
破れたマスクが378万円
虎ハンター死す――新日本プロレスで初代タイガーマスクと数々の名勝負を繰り広げたレスラーの小林邦昭さんが9日に死去していたことがわかった(享年68)。メキシコ武者修行から帰国した82年、タイガーとの試合では何度もマスクを破る暴挙に出るなど、「虎ハンター」として人気を博した。引退後は新日本道場の管理人として新人レスラーの育成にも励んでいたが、晩年はがんとの闘いの日々だったという。「デイリー新潮」では2023年10月29日、小林さんとタイガーの名勝負のウラにあった秘話を報じている(以下、2023年10月29日の配信記事を元にしています)
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【写真を見る】全盛期の初代タイガーマスクのファイトと、引退後の佐山聡
「一番、高価なプロレス・マスクは何だろう?」
マニアックなファンも多いプロレスの世界。中でも高値で取り引きされるのがマスクだろう。ご存知、覆面レスラーにとっては、顔であり命でもあるアイテム。粗製乱造ものはともかく、いわば市販ものでも数万円は下らないだけに、実際に本人が着用した本物なら、価格は天井知らずになる。
1969年、ミル・マスカラスが初めてNWA世界ヘビー級王座に挑戦した時の虎柄のマスクは最低でも300万円は下らないとされるし(データは週刊ゴング増刊号「ゴング・マスク・コレクション」より)、お宝査定番組としてお馴染みのテレビ東京「開運!なんでも鑑定団」では2017年11月、初代タイガーマスクが全盛期に使用したマスクが登場。「1000万円」と評価されていた。番組内でも触れられていたように、少なくとも日本発 で現存する物なら、これが最高額となろう。もっとも、これらは、その希少価値から、今後、更に値段が上がって行くことも考えられる。
ところで、コレクションと言えば、完品、かつ美品が喜ばれるのが世の常。キズモノなどがご法度なことは、読者も周知のことだろう。
ところが、かつて破れているマスクに、378万円という高額がついたことがあった。しかも、この値段で2017年に専門店にて売りに出され、2時間経たずに売約済みとなった。
それは、小林邦昭が破った、初代タイガーのマスクだった。
1981年4月、アントニオ猪木率いる新日本プロレスでデビューした初代タイガーマスクは、ダイナマイト・キッド、初代ブラック・タイガーらの好敵手を相手に躍動。シングルでの黒星は反則負けの1回のみ(vsダイナマイト・キッド)。毎週金曜日、午後8時のゴールデンタイムに放映されるテレビ朝日「ワールドプロレスリング」での華麗なファイトもあいまり、大人気となった。
こんな逸話がある。タイガー人気が絶頂だった1982年10月、東京駅から、巡業に行く新日本プロレス一行と、修学旅行に行く小学生の一団が新幹線で同乗することに。すると、駅のホームで子どもたちは、猪木そっちのけで、ウロウロとし始めた。あげく、言うには、「タイガーは、どこなの?」目の前にマスクをしていない佐山聡がいたのだが、わかるはずもなかった。当時のタイガーが、いかに少年少女ファンに愛されていたかがよくわかるエピソードだろう。しかし、そのマスクマンとしての命が、脅かされる時がきた。
同月、小林邦昭が、メキシコより凱旋帰国。タイガーにマスク剥ぎを敢行したのだ。
掟破りのマスク剥ぎ
不穏な予兆はあった。小林が帰国前、メキシコで長州力と行動を共にしていたという情報があったのだ。長州はまさに凱旋直後の10月8日、当時、新日本プロレスのプリンスと言っていい、藤波辰爾に反旗を翻していた。長州と徒党を組むこと自体が、新日本では反主流派になること、つまり、ジュニアヘビー級においては、タイガーの敵側に回ることを意味していた。
タイガーと小林は10月26日、大阪で初の一騎打ちとなるが、その直前に小林が出したコメントも、ショッキングなものだった。
「俺は素顔を知ってるんだぜ」(『東京スポーツ』1982年10月26日発売分)
タイガーはマスクマンだが、他のレスラーと同じくひとりの人間だ。だが、少年少女ファンにとっては、あくまでタイガーマスクであり、夢のヒーローだった。小林のコメントは、言ってはならないことであり、生々しい言動だった。そして迎えた決戦――。
序盤は素晴らしいレスリングの攻防。ところが試合が佳境に入った15分前後。小林は急にタイガーをコーナーに逆さづりに。直後、なんとマスクの口元に手を入れると、一気に裂いてしまった(※16分57秒 小林の反則負け)。
「初公開!Tマスクの素顔」
この試合を報じたプロレス専門誌「ザ・プロレス」(1982年11月16日号)の発売前広告で大書された文字である。実際は、マスクが鼻にかけて少し破れただけで、素顔が露わになったわけではなかった。だが、これだけでも、大事件だったのだ。
それは、数字にも表れた。前週の(小林がタイガーを襲撃した)試合の放送視聴率は16.5%。マスクを剥いだこの日は、録画中継ながら、視聴率がなんと5.7%もアップ。じつに22.2%を記録したのである。更に翌週、2人は再戦し、小林はここでもマスク剥ぎを敢行(11月4日)。しかも、この2回目はエプロン上から外側に向けタイガーをロープに磔にしてマスクを破る形で、観客は直にそれを見ることとなった。場内は悲鳴と怒号の渦となり、視聴率は23.7%を叩き出した。
両試合はこの年の「ワールドプロレスリング」で、初めての視聴率20%超えだった。他にも好カードはあったが、小林によるマスク剥ぎが数字を押し上げたのは間違いない。小林は、リング上で蛮行に及んだ理由を、以下のように語っている。
〈マスク剥ぎはね、俺のほうが最初から狙ってたんだよね。(中略)普通に試合をしたら、お互い勝っても負けてもそれで終わっちゃうだろう、と。あれ(マスク剥ぎ)をやることによって、印象に残るし、以後続く戦いに意味を持たせることができるから〉(「週刊宝石」2000年6月1日号)
実際、2人はタイガーが引退するまで、計7度、一騎打ちしているが、3試合目以降も視聴率は22.0%、23.5%と高値続きだった。戦績はタイガーの全勝(うち、反則勝ちが4つ)ながら、全ての一騎打ちはゴールデン枠で放映され、その平均視聴率は21.8%という驚異的なものであった。抗争が続くに連れ、小林がタイガーのマスクの後頭部にある紐から解いて行くだけで、会場は子どもたちの泣き声すら含む、叫びと怒声に支配されるようになっていった。
2017年、小林も含めたテレビ・ドキュメンタリー製作にあたり、都内のプロレス専門ショップにも取材をかけた。冒頭で紹介した378万円のマスクは、この時期、この店で関係者伝いに売りに出された、2度目に破られた時のもの。余りに早く売り切れたため、ショーウィンドウ越しに展示期間が設けられたが。もちろん、「売約済み」のシールが貼られていた。
なお、最初に破られた大阪での1枚は、2012年、同じ店で250万円で売買が成立。少々具体的な話になるが、この時、2度目に破られたマスクは、300万円で売りに出されていた。このマスクは一度売りに出され、5年後に再び市場に出た時、上述の通り378万円と、更に値が張っていたのである。
この時の取材で、関係者に2つのマスクの値段の差を聞くと、マスク自体の状態や人気の良し悪しもあるが、理由の1つとして、「2度目の方が大きく破られているから」とのことだった。
そして、この大人気となった戦いの余波は、小林にも望外な形で向けられた。
「あんなことばかりしていると、命がないからね!」
大阪での最初のマスク剥ぎを終え、その週の日曜日は東京でのオフに。小林は渋谷に出てみた。すると、人々の視線を感じる。立ち止まって見つめる人が何人もいる。明らかにタイガー戦が2日前、放映された効果だった。
“虎ハンター”という異名ももらい、少しすると、新日本プロレスには小林宛ての手紙がドッサリ。早速、そのうちの一通を開けたその時だ。
「痛っ!」小林自身の叫びと同時に、右手の親指の付け根から血がドクドクと流れ落ちていた。カミソリの刃が入っていたのだ。同様の封筒はその後も続いた。差出人は不明で、消印は全国津々浦々だった。
“虎ハンター”の出現。それは稀代のスーパーヒーローの怨敵としての、全国的なヒール選手誕生の瞬間でもあったのだ。
血文字で「死ね」と書かれた手紙もあれば、封を開けると両刃のカミソリが20枚以上落ちてきたこともあった。そこで小林はまず、手紙を灯りに透かし、下の方から開けることを覚えた。差出人の書いてない手紙は、捨てざるをえなかった。街中で可愛らしい女子高生が駆け寄って来たかと思うと、「アンタ! あんなことばかりしてると、命がないからね!」と凄まれたこともあったという。
だが、小林は、決して攻め手を緩めなかった。カメラの正面でタイガーの覆面をスッポリと剥ぎ、一瞬素顔を露わにしたこともあれば、剥ぎ取ったマスクを遠く放り投げてしまったこともある。先述したテレビ番組の取材で、改めてこの時期の気持ちについて小林に問うと、こう答えた。
「ここでひるんだら俺も終わってしまうし、タイガーの熱さにも水を差すことになるから」
だが、戦いは突然終わる。小林の元に、素顔の佐山サトルが人目につかぬよう尋ねて来たのは、1983年7月のことだった。
「全てを白紙に戻したいんです。自由になって、休みたいんです」
小林へのその言葉通り、タイガーは翌月、電撃引退。全国的な人気者の疲れはピークに達していたのだ。実を言うと、2人はもともと、大の親友同士だった。
試合では勝っても、人生や包容力では負けていた
小林の方が1つ年上だが、若手時代はライバルとして鎬を削った。当時、良い試合をすると、道場長の山本小鉄から5000円貰えたというが、2015年に筆者が佐山にインタビューした際には、こう言ってくれた。
「僕と小林さんがやれば、貰えないことはなかったですね(笑)」
同様に小林も、「佐山とやれば必ず貰えたから、カードを組まれると嬉しかったね」と答えている。
佐山が初めての給料で購入した2人乗りの4輪自転車で、道場からその日の試合会場の田園コロシアムまで小林とともに仲良く漕いで行くと、なんと会場では2人の一騎打ちが組まれていたこともあった(1976年8月28日)。さすがに帰りは同乗するわけに行かず、佐山が1人で漕いで帰ったという。
メキシコでの修行時もグラン浜田宅に居候という形で同居。部屋の鍵をなくして、2人でドアを壊して入ったり、佐山が買ったバイクに相乗りでスーパーに買い出しに行ったりという、ツーカーの日々だった。とはいえ、
「佐山は運転してるから、目の前の木とかサッと避けるんだけど、ハコ乗りの俺は気付かずにガンガン当たってね。お陰で頭が悪くなった(苦笑)」(小林)
2人で力を合わせ、新弟子時代の前田日明にイタヅラを仕掛けていたのは、以前も書いた通りだ(2023年8月6日配信『前田日明が何度も騙された「お化け騒動」 本人は「人生で一番楽しかった」と語った伝説の新日時代』)。
2000年4月、小林は現役を引退。それを機に、佐山との対談が組まれた。佐山は若手時代、小林の絞めで歯を折られたことを告白。「悔しかったから言わなかった(笑)」。話はタイガー時代の抗争に。小林は前述の、剃刀での親指の負傷を語った。その際、未だに残るその大きな傷痕を観て、佐山は目を丸くした。
〈そんな大怪我したって初めて聞いたよ、今まで僕に心配かけまいとして言わなかった〉……(前出「週刊宝石」)
小林の引退セレモニーには、もちろん佐山も登場。だが、リングに上がる前から号泣していた。永遠の宿敵に花束を渡し、抱き合った佐山は、涙も渇き切らぬ中、報道陣にこう語った。
「僕は小林さんに、試合では勝っても、人生とか包容力では、完璧に負けてました。ありがとうとしか、言いようがないです」
「小林さんですよね?」と、街で呼び止められることが、今でもあると言う。そして続けて言われる。
「見てましたよ、タイガーとの試合。あの頃、僕は中学生だった……」
「『サインが欲しい』って言われることもね」と小林。快く応じながら、ふとこんな質問をぶつけることがあるそうだ。
「ところで、どちらのファンでした?」
答えは一つだという。
「申し訳なさそうに、でもみんなやっぱり、『タイガーマスク』って言うんだよね(笑)」
そう言って、小林は嬉しそうに笑った。まるで、「それも自分の誇りだ」と言うように。
瑞 佐富郎
プロレス&格闘技ライター。愛知県名古屋市生まれ。フジテレビ「カルトQ〜プロレス大会」の優勝を遠因に取材&執筆活動へ。近著に『アントニオ猪木』(新潮新書)、『永遠の闘魂』(スタンダーズ)、『アントニオ猪木全試合パーフェクトデータブック』(宝島社)など。BSフジ放送「反骨のプロレス魂」シリーズの監修も務めている。11月末には新刊を上梓予定。
デイリー新潮編集部