5代目古今亭志ん生(左)と8代目桂文楽

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「芸人は破天荒」というイメージも今は昔であるものの、昭和芸人のエピソードは一部が伝説化している。今回ご紹介するのは、昭和の落語界で“双璧”と呼ばれた5代目古今亭志ん生と8代目桂文楽。対で語られることが多い2人のためライバル関係を想像してしまうが、実は仲が良かったという。ただし、「飲む・打つ・買う」に明け暮れた志ん生が、文楽に「娘を5円で買ってくれ」と持ち掛けたという仰天エピソードも。果たしてその真相は?

(「新潮45」2006年6月号特集「昭和史 13のライバル『怪』事件簿」より「古今亭志ん生×桂文楽『稀代の名人が娘を売ろうとした噺』」をもとに再構成しました。文中敬称略)

【レア写真】志ん生は右半身不随でも高座に…付き人に背負われて移動する姿

昭和の双璧・志ん生と文楽

 噺家が、開口一番「エー」と唸り、瞼の奥の黒眼を泳がせると、客は乗り出すように次の一言を待ちわびた。そこが、古今亭志ん生が計算し尽くした絶妙の間だという声もあれば、実はそのときに初めてなにを話すか考えるのだという説もある。

5代目古今亭志ん生(左)と8代目桂文楽

 当人の弁は、後者だった。もっとも、マクラの滑り具合で、演目がどこに飛ぶかもわからなかった。「つまり客の脈をとるわけですよ。脈をとらなければ薬はもれませんよ」(自伝『なめくじ艦隊』筑摩書房)。まさに「天衣無縫」「破天荒」「融通無碍」の芸風だった。

 志ん生と並んで、昭和の双璧といわれるのが桂文楽だが、こちらは寸分の無駄もなく刈り込んだ緻密な噺を、丹念に磨き込んで高座にかける職人肌の名人だった。艶のある語り口と仕草、噺の完成度においては、右に出る者がいなかった。

実は肝胆相照らす仲?

 若くして人気をつかみ、芸人仲間からも敬愛された文楽に対し、「飲む、打つ、買う」に明け暮れた志ん生は、落語界でのしくじりも数知れず、縁起担ぎや借金取りの眼をくらますために16回もの改名を重ね、戦後、売れ出したのは、50代半ばを過ぎてからだった。

 絵に描いたように対照的な芸風、性格、経歴のふたりは、互いの存在を強く意識し合っていたと言われるが、一方で、肝胆相照らす仲でもあったらしい。ただ、人前でそれらしい素振りも見せなかったし、両人の自伝にも、素っ気ないほど相手の名前は出てこない。

 志ん生が底抜けの貧乏であったのは、つとに有名な話だが、そのころの逸話である。文楽との間で、志ん生の娘を5円で「売買」する話が持ち上がる。つまりは養女縁組のことなのだが、それを売るの、買うのと言って、湿り気なく話を転がしたところが、いかにも名人ふたりらしい仕立てなのだ。

正反対の人生

 古今亭志ん生こと、美濃部孝蔵は明治23年、東京神田の生まれだ。小学校を中退し、奉公に出たがどこも長続きしない。

「あたしは子どもの時から酒が大すき、その上に十四、五くらいから賭場へ出入りして、バクチを打ち、スッカラカンに負けちゃって、ハダカでスゴスゴ家へ帰ったことも、たびたびあったんで、親父が怒ったのも無理はありませんや」(『なめくじ艦隊』)

 15歳で家を飛び出した切り、ついにその敷居をまたがなかった。明治43年に20歳で、三遊亭小円朝に弟子入りして三遊亭朝太の名で噺家としての一歩を踏み出すことになる。

 志ん生より2歳年下、東京育ちの文楽は、これより2年早く桂小南(初代)に入門していた。その才覚は早くに芽をだした。25歳のときに柳亭左楽門に移って真打ちに、28歳で8代目桂文楽を襲名し、若手人気芸人の筆頭と認められる。

 志ん生は文楽より遅れること4年、大正10年に31歳で金原亭馬きんとして真打ちに昇進するも、まだ端席芸人のひとりにすぎなかった。酒が過ぎて席を抜くのはたびたび、師匠の羽織を質入れしたり、大御所と悶着をおこし講談に転向したりと、なにかと周辺に波風を立てる難物だった。

「喜美子を売ることにしたよ」

 14回目の改名で、志ん生が柳家甚語楼(初代)を名乗っていた昭和4年、一家は夜逃げ同然で、本所区業平橋の通称「なめくじ長屋」に転居している。子ども3人を抱えた一家の暮らしは、どん底にあった。5歳になったばかりの次女・喜美子の養女話が持ち上がったのは、この年だった。

 作家結城昌治による志ん生の評伝『志ん生一代』(小学館)にある、その場面である。夜更けに長屋に戻った志ん生は、妻・りんに藪から棒に切り出す。

「喜美子を並河(桂文楽)のとこへ売ることにしたよ」
「喜美子を売るって?」
「うん五円だ」

 上野黒門町に住んでいた文楽の本名は、並河益義(ますよし)であった。子どもに恵まれなかった文楽が、ひとりを養子にもらえないかと打診したらしかった。

「それで五円で売ると言ったのかい」
「それは並河が言ったのさ。ご縁のしゃれだよ」

 志ん生は、売れっ子の文楽の家で育てられる方が、子どもにとっても幸せだと、りんを説得した。数日後、喜美子の手をとり、市電で上野広小路に降り立った志ん生だが、途端に、気配を察した娘に激しく泣かれ往生してしまう。さすがの志ん生も、そのまま家に連れ帰った。

「苦しいのはお互いさまだった」

 だが本当の事情は、少し違うようだ。産経新聞社特集部編『新ライバル物語』の「草書と楷書の落語伝説」には、弟子の柳家小満んが聞いた、師匠文楽の言葉が載っている。

「あんときは驚きましたね。志ん生さんが娘を買ってくれっていうんだよ。シャレがきつすぎるんだよ、まったく」

 いずれにせよ、ふたりの強い信頼関係あってこその縁組み話だった。

 文楽、志ん生とも親交のあった演芸評論家の矢野誠一氏に、伺ってみた。矢野氏は、両人からこの話について聞いたことはなかったが、「5円」という額については、覚えがあった。

「文楽さんが、志ん生さんに5円貸していたのは確かでしょうね。『いまでこそあちらは貧乏を売りにしてるけど、あの時代の芸人は売れっ子でもなかなか食えなくて、苦しいのはお互いさまだった。世間は、あちらの貧乏話をおもしろがるが、貸した5円を返してもらえなかったあたしの方だって、それこそたいへんだったんだから』って、冗談めかして文楽さんが話してくれたことがあったんですよ」

 どうやらそんな経緯もあって、養女話に「買う」だの「5円」だのという尾ひれがくっついてきたらしかった。

文楽の家は志ん生の持ち物でいっぱい?

 新宿の寄席「末広亭」の席主・北村銀太郎は、ふたりの関係を間近に知るひとりだ。『聞き書き・寄席末広亭』(冨田均著、平凡社)で、こんな面白い風景を語っている。

「あの2人、仲がよかったんだよ。借金なんかあまり返したことのない志ん生さんが、文楽さんのところに借りにゆくときだけは、借金のカタになんて額なんかをちゃんと置いてくんだもの、ほかとは大違いだよ。文楽さんも志ん生さんがくれば、『ああ、いいよ』って貸してやってたから、しまいにゃ文楽さんちは志ん生さんの持ち物でいっぱいだよ」

 昭和14年に、5代目古今亭志ん生を襲名した彼が、本格的に売れ出したのは、慰問興行に出かけた満州から、戦後帰国してからだった。

 以降、志ん生と文楽の二枚看板が、落語人気を守り立てていくことになる。志ん生はのち、落語協会会長に就任、昭和39年には紫綬褒章を受ける。ただ、いずれも文楽の後塵を拝す格好になった。しかし、肝心の人気ではすでに、文楽を凌ぐ勢いだった。

自分にないもので惹かれ合った2人

 両者の引き際というのがまた、実に好対照だった。

 都内のホテルで催された巨人軍の納会で一席を頼まれた志ん生が、壇上で倒れたのは昭和36年、脳出血である。しかし翌年には、右半身不随のまま復帰を果たす。舌の回りは悪くなる一方だが、それから6年近くも高座に上がり続け、なおも「独演会やりてえなあ」と漏らしていた。

 志ん生が高座から姿を消して3年、文楽の雄姿は、昭和46年8月に国立劇場小劇場で開かれた「落語研究会」が最後となった。その日、晩年の文楽が得意とした「大仏餅」は、小気味よくはじまったが、あるところで彼は言葉を失う。登場人物の名前が出てこないのだ。一呼吸置いた文楽は、丁寧に頭を下げた。

「まことに申し訳ございません。勉強し直してまいります」

 彼は、二度と高座に上ろうとはしなかった。

 同年12月、日暮里の自宅にいた志ん生は、テレビニュースで肝臓を患っていた文楽の訃報を知った。79歳だった。おりしも、3日前に妻・りんを見送ったばかりだった志ん生の目からは、とめどなく涙がこぼれ落ちたという。彼の死出の旅は、その2年後の昭和48年9月だった。83歳の大往生で、少しの酒を含んで眠ったまま逝った。

 前出・矢野氏の言葉である。

「人って自分にないものに惹かれるでしょ。どちらも、非凡な相手の技量をよく知っていた。志ん生は、文楽には絶対なれなかった。逆もまたしかり。だからこそありえたいい関係なんでしょうね」

駒村吉重(こまむら・きちえ)
1968年長野県生まれ。地方新聞記者、建設現場作業員などいくつかの職を経て、1997年から1年半モンゴルに滞在。帰国後から取材・執筆活動に入る。月刊誌《新潮45》に作品を寄稿。2003年『ダッカに帰る日』(集英社)で第1回開高健ノンフィクション賞優秀賞を受賞。

デイリー新潮編集部