アラン・ドロン(1970年代)

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 デイリー新潮は7月25日、「アラン・ドロンへの虐待で刑事告訴され自宅にも戻れず…17年間事実婚状態のヒロミさんが日本メディアに初の告白」との記事を配信した。世界的な大スターであるアラン・ドロンは1935年11月生まれ。御年88歳ということもあり、彼の相続問題や“最後の女性”が注目を集めているのだ。

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【写真を見る】アラン・ドロンから「最後の女」と言われたヒロミさん(67)

 昨年の夏までアラン・ドロンは日本人女性のヒロミさんと事実婚状態にあった。ところが彼の子供たちから訴えられ、ドロンと会えない状態になってしまった。渦中のヒロミさんは週刊新潮の取材に応じたのだが、彼女が日本のメディアに語ったのは、週刊新潮が初めてとなる。記事から地元紙記者のコメントを紹介しよう。

アラン・ドロン(1970年代)

《「7月1日にフランス国際放送のTV5MONDEが、ドロンの特集番組『アラン・ドロン 世界を前に』を放送したのです。インタビューが中心の1時間番組で、収録場所はドゥシーの自宅でした」》

《「ドロンがメディアの取材を受けるのは久々でしたが、それ以上にプライベートに関する意外な発言が世間の耳目を引きました。ドロンは初めて“日本人の連れ合い”との表現で、長らく同居する女性の存在を明かした。それこそが、ヒロミでした」》

《「番組ではヒロミがドロンの背中に抱きつく姿など、二人が仲むつまじい関係にあることをうかがわせる写真も紹介されました。一夜明けると、マスコミはヒロミの存在を一斉に報じ始めた。中には“アラン・ドロン、日本人女性に恋している”と、センセーショナルなタイトルの記事を掲載した雑誌もあったほどです」》

アラン・ドロンとプロデューサー

 このヒロミさんが、なぜアラン・ドロンの子供たちから訴訟を起こされたのか、ドロンの財産相続はどのような状況なのか、今のヒロミさんがどのような境遇なのか──こうした問題については、デイリー新潮が配信している記事をお読みいただきたい。本稿で改めて考えたいのは、あまりにも奔放なドロンの“女性遍歴”と、それが彼の人生のどのような影響を与えたのかという問題だ。

 同じ日本人女性による貴重な証言が残っている。映画プロデューサーの吉崎道代さんは1992年、共同製作した映画「ハワーズ・エンド」と「クライング・ゲーム」が米アカデミー賞の15部門にノミネートされ、4部門で受賞という快挙を成し遂げたことで知られる。

 吉崎さんは1942年、大分県に生まれた。高校を卒業後、単身でイタリアの映画学校に留学し、その後の波瀾万丈の半生は自伝『嵐を呼ぶ女 アカデミー賞を獲った日本人女性映画プロデューサー、愛と闘いの記録』(キネマ旬報社)に上梓された。そして著書の中ではアラン・ドロンとの“関係”が綴られている。

 夕刊フジの公式サイト・zakzakは2022年10月、「棺桶に入るまで現役、今が一番楽しい アラン・ドロンとの“一夜”を告白 映画プロデューサー・吉崎道代さん『嵐を呼ぶ女』」との記事を配信した。

 吉崎さんはシングルマザーとして子供を育てたのだが、その父親と1日違いでドロンとも関係を持ったと著書で明かしたのだ。

駆け出しの俳優でも若手スターと同棲

 インタビュアーが《アラン・ドロンはこの話、知らないんですか》と質問すると、吉崎さんは《もちろん。何でも彼が関係した女性は1万3000人とか聞きますから、私のことなんか覚えてないですよ》と答えている。

 若き日のアラン・ドロンの映画やスチールを見れば、1万3000人という数字に信憑性を感じる人は多いだろう。今は“イケメン”と形容されることが多いが、正統派のドロンは“二枚目”の言葉が似合った。それも“世紀の二枚目”とか“二枚目の代名詞”と呼ばれた。実際、映画史に残る美貌という評価が定着している。100年に1人の逸材というわけだ。

 彼の人生も波瀾万丈だ。4歳で両親が離婚し、母親に引き取られるが、再婚した義父との折り合いが悪いなど、家庭不和に苦しんだ。17歳でフランス海軍に入隊し、20歳で除隊すると様々な職業を転々とする。

 あまりの美貌に、周囲が俳優を薦めた。演劇を学ぶなど、俳優を積極的に目指したわけではなかったが、スカウトに注目されるなど映画業界と接点が生じた。そして1957年に映画デビュー。59年に出演したコメディ映画がヒットし、まだ駆け出しの俳優だったにもかかわらず、西ドイツの若手スターだったロミー・シュナイダーに見初められて同棲を始める。

次から次へと……

 ロミー・シュナイダーと同棲を続けながら、ドロンは他の女性とも関係を持った。アルバム「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ」で知られるモデルのニコとの交際はよく知られており、1962年に長男が生まれたが、アラン・ドロンは入籍も認知もしなかった。

 1963年には映画の撮影でナタリー・バルテルミーと共演して交際。この時はロミー・シュナイダーと別れることを選んだため、フランスの芸能メディアから叩かれたという。64年に結婚し、ナタリー・バルテルミーはナタリー・ドロンとなり、彼女もスターになった。二人は一児をもうけたが、69年に離婚。ナタリーは演技の仕事を続けたかったのだが、ドロンが難色を示したことが原因と言われている。

 ナタリー・ドロンと破局すると、次は女優のミレーユ・ダルクと関係を持った。長い交際となったが、80年代後半にオランダ人モデルとの間に二児をもうけ、後に破局している。

 アラン・ドロンと交際したのは女性だけではない。イタリアの名匠、映画監督のルキノ・ヴィスコンティは映画「若者のすべて」(1960年)、「山猫」(1963年)の2本でドロンを起用。彼にとっての出世作となっただけでなく、映画史に残る傑作として知られている。

女性関係で窮地に

 ヴィスコンティの求めにアラン・ドロンは同意。ヴィスコンティ家はミラノ公国を掌握した都市貴族として知られている。交際がスタートすると、ヴィスコンティはアラン・ドロンに“城”をプレゼントしたというエピソードも残っている。

 映画評論家の北川れい子さんは「アラン・ドロンはスキャンダルな人生を歩んできた人です。しかし、どこか憎めないところがあり、映画関係者もファンも彼を許してきたと思います」と言う。

「もちろんドロンの魅力は傑出していました。さらに昔はインターネットもなかったので、情報そのものが非常に限られていました。ファンにとってはスクリーンに映る彼が全てという状況でしたから、スターは文字通りの雲上人だったのです。女性遍歴の報道が海外ニュースとして報じられることもありましたが、やはり日本ではそれほど話題にならず、イメージが悪化するようなことはなかったのです」

 実はアラン・ドロンが窮地に立たされたことがあったのだが、それも女性関係が影響していた。1968年10月、彼の元ボディーガードだった男性が射殺死体として発見される。捜査の進展と共に、アラン・ドロンとマフィアとの関係や、有力政治家と女性を巡る不適切な交際など、数々の疑惑が浮上した。

成功したイメチェン

「これらの疑惑は当時の日本でも、ニュースとして報じられました。ところがドロンは、このピンチを利用します。チンピラや犯罪者の役に挑み、スキャンダルを逆手にとって観客にリアリティを感じさせたのです。もともとドロンは光だけではなく暗い影も感じさせる役者だったことも幸いしたと思います。アウトローの役も演じるというドロンのイメージチェンジは観客から支持されただけでなく、監督やプロデューサーからも高く評価されました。そのため出演オファーが殺到する事態になり、誰もがスキャンダルのことを忘れてしまったのです」(同・北川さん)

 殺人事件を発端とし、裏社会とのつながりなど“闇”を感じさせる深刻なスキャンダルが報じられても、観客や業界関係者はアラン・ドロンを許した。それは女性遍歴でも同じだったという。

「もちろん全ての交際が明らかになったわけではありませんが、女性側が不同意だったにもかかわらず、アラン・ドロンが強引に関係を求めた、という深刻な性加害に該当するようなケースは報道されていません。さらに二枚目と言っても、普通の二枚目とは格が違います。女性だけでなく男性にも人気のスターでしたから、どうしても世論は甘くなってしまったと思います。むしろ、彼の持つ“やんちゃ”な部分を、誰もが愛しました。ただ、彼の晩年は“昔の名前で出ています”という仕事ばかりだったと思います。かつての二枚目俳優が年齢を重ねて円熟味を増し、名演技で最高傑作を残す、ということはドロンには起きませんでした。不思議なほど成熟とは無縁の俳優人生だったと思います」(同・北川さん)

最後の女性

 北川さんは「映画史に残る世界的大スターが、あろうことか晩年を日本人女性と一緒に暮らしていたわけです。報道には本当に驚きましたが、同じ日本人として誇らしい気持ちになってしまいました」と苦笑する。

「私は報道以上のことは知りません。でも不思議とヒロミさんに尊敬の念を持ってしまうんです(笑)。ただ、ドロンは生い立ちが不幸だったこともあり、これまで交際してきた女性に暴力を振るってきたことが明らかになっています。ヒロミさんも被害者の一人という報道も目にしました。かなり犠牲的な、苦労も絶えない事実婚だったのかなと想像することもあります。とはいえ、男性の口説き文句に『あなたは僕の人生で最後の女性だ』があります。ドロンも最後の女性と思ってヒロミさんと交際していたのではないかと考えますし、それは素晴らしいことではないでしょうか」

デイリー新潮編集部