スペインの優勝に大きく寄与したヤマル。(C)Getty Images

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 髪に金メッシュを入れ、歯列矯正をしている。17歳の青年がする普通のことだ。ESO(4年制中等義務教育)を卒業したばかりで、それとは別に英語のレッスンを受講している。17歳の青年がする普通のことだ。レゲトンとラップミュージックが好きで、オーバーサイズの服を着ている。17歳の青年がする普通のことだ。

 しかしその一方で、一家の大黒柱として家族を養い、大富豪並みの資産を管理する。17歳の青年がする普通のことではない。専属運転手を持ち、ファーストクラスに乗る。17歳の青年がする普通のことではない。リオネル・メッシが会いたいと言い、EURO2024でレアル・マドリーの新ガラクティコ、キリアン・エムバペから主役の座を奪った。17歳の青年がする普通のことではない。

 彼の名前はラミネ・ヤマル。スペインをEUROの優勝進出へと導いた。普通に見えるが、そうではない。

 数か月前、スポーツ用品メイカーのアディダスはヤマルと交渉の場を持った。幹部たちはその際にポケットに1枚のカードを忍ばせていた。契約成立への切り札としてプレゼンテーション動画の締めに、「僕たち家族の一員になってほしい」というメッシのメッセージを用意していたのだ。ライバル社のナイキは反撃を試み、エムバペを頼ったが、徒労に終わった。一連の交渉に近い情報筋が明かす。「ラミネにとってメッシはアイドルで、エムバペは同世代の選手の1人に過ぎない」と。
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「独特かつ特別な頭脳を持っている」。ヤマルが加入する際に、大きな役割を果たしたバルセロナの元アカデミーダイレクター(育成部門責任者)、ジョルディ・ロウラが明言すれば、「あれだけの凄まじいプレッシャーを受ける中でプレーするには、常人離れした自尊心を持たなければならない。パーソナリティ、勇気、大胆さ、他にも言い方はいろいろあるけどね」と父親のムニル・ナスラウィもその強靭なメンタルを称賛する。

 ムニルはモロッコ出身だ。彼と彼の家族は、豊かさを求めてバルセロナに移住した。ほどなくして赤道ギニア出身のシェイラ・エバナと出会い、ヤマルが生まれた。ムニルが21歳、シェイラが16歳の時だ。「息子と妻を養っていくために、やれることはすべてやった」とムニルはことあるごとに語る。
 
 ヤマルは、外国人の総人口に占める割合が32.8%(地元メディア『Capgros』による情報)に達するロカフォンダ地区(バロセロナ県マタロ―)で育った。いつもボールと一緒だったそうだ。誰の目にもとまらない地区で生まれ育った子供たちにとってはその過酷な環境から逃れるための永遠の味方だ。

 その名残りは今も消えず、「ストリート上がりの選手特有のドリブルを持っている。恐れを知らない。年上の選手と一緒にプレーすることに慣れっこになっている」とジョルディ・ロウラは評価する。

 ムニルは、シェイラとの関係が破綻するまで、職を転々とした。一方、シェイラは、近郊の街、グラノリェース(バルセロナ県)に引っ越して、マクドナルドで働きながら、生活を立て直した。現在、彼女には別のパートナーがおり、ラミネには弟がいる。ラミネにとって、父と母の間に距離が生まれたことは、カンテラの責任者にとって友達づきあいを管理することと同じくらい、時に処理するのが難しい問題だった。
 
 ヤマルは7歳の時にバルサのカンテラに加入した。ジョルディ・ロウラは当時を回顧する。

「バランスが少し悪く、歩き方もおかしかった。でも突然、ものすごいボールコントロールを見せたり、とんでもないシュートを打ったり、他の誰とも違うフェイントを繰り出していた。すでに別格だった」

 当時、ラミネはグラノリェースとマタロ―で交互に暮らしていた。練習場に連れて行くのは父親の役割だった。「他の親たちが1時間前に車で到着する中、3時間、4時間、時には5時間前に起きて息子を連れて行かなければならなかった。2人でいつも電車で通っていた。息子は寝てしまうこともあれば、遊んでいることもあった。子供じみたいたずらをされたこともあったよ。でも、彼はいつもとてもいい子だった」とムニルは振り返る。

 当時、バルセロナはラミネに奨学金を与え、そのお金は両親が管理していた。しかし、この管理は解決策になるばかりか時にトラブルを引き起こした。バルサはラミネの未来を引き受けることにした。

「あらゆることから彼を守らなければならなかった」と当時、カンテラの関係者は語っていた。ラミネは13歳の時にラ・マシアに入寮した。「勉強、食事、休息時間を管理するためだった」とジョルディ・ロウラは説明する。

 ラ・マシアはヤマルにとって、悪い仲間との関係を断ち切るための盾であり、成熟するための槍だった。いつしか自分自身でお金を管理し始めるようになり、こうした数々の経験が、精神的成長を促した。その際にカウンセリングを担ったのが、代理人のジョルジュ・メンデスに関わりがあるグループのスタッフで、分野はマーケティング、金融、コミュニケーション、スポーツヘルスと多岐に渡った。

 こうした試みが、両親の介入を防ぐ壁にもなっていた。今、両親は、ヤマルが無名であった頃からずっとそばにいるような、お金にはなっても名声には繋がらない、昔からの関係を維持することを望んでいる。
 
 バルサのトップチームの関係者は、「ドレッシングルームにこれほどまでにスムーズに適応したのは信じられない」と驚嘆するが、ヤマルにはその素養があったわけだ。その関係者はまた「目立ちたがり屋というわけではないが、外向的、そして何よりクレバーだ。ストリートで身につけた能力だろう。頭の回転も速く、いつも質問ばかりしている」と証言する。

 いまラ・マシアがあるサン・ジョアン・デスピで暮らすヤマルは、常に母親と緊密な関係にある。ムニルは強調する。「我々は謙虚な家族だ。我々の身の回りで、いろいろなことが起こった。ヤマルには、才能に恵まれながら、志半ばでキャリアを諦めた選手たちの話を何度も聞かせてきた」
 
 ラミネは聞くだけでなく話をする。EUROでは誰よりも輝きを放ち、メッシと同じスパイクを履き、エムバペを退け、ペレを超えた(フランス戦でペレが保持していた主要国際大会での最年少得点記録を更新)。成熟しているが、ストリート上がり。アカデミー育ちだが抜け目がない。知的だが、大袈裟。ラミネ・ヤマル、職業はプロサッカー選手。見た目は普通だが、そうではない。

文●ファン・I・イリゴジェン(エル・パイス紙バルセロナ番)
翻訳●下村正幸

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