小説『アイスリンクの導き』第8話 「約束のサイン」
岡山で生まれた星野翔平が、幼馴染の福山凌太と切磋琢磨しながら、さまざまな人と出会い、フィギュアスケートを通して成長する物語。恩師である波多野ゆかりとの出会いと別れ、そして膝のケガで追い込まれながら、悲しみもつらさも乗り越えてリンクに立った先にあるものとは――。
今回の小説連載では、主人公である星野がすでに現役引退後の日々を送っている。膝のケガでリンクを去る決意をしたわけだが、実はくすぶる思いを抱えていた。幼馴染の凌太や橋本結菜と再会する中、心に湧きあがってきた思い...。
「氷の導きがあらんことを」
再び動き出す、ひとりのフィギュアスケーターの軌跡を辿る。
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星野翔平が病院で治療を受けた後、外はすでに夜の帳が下りていた。宿泊していたホテルに戻ることになった。肘と肩の軽い打撲だけで頭は異常なしで、うまく受け身が取れていたらしい。
「翔平君、お肉に向かって一歩前進! ショートは首位だよ。体は大丈夫だった?」
ホテルに向かうタクシーの中でスマートフォンを確かめると、陸から通信アプリにメッセージが届いていた。人柄が出た文面だった。
「ピンピンしてる。フリーだけでも滑りたいよ。首位おめでとう」
簡潔に文字を打って返した。
「今、電話大丈夫?」
「大丈夫」
翔平が返信すると、すぐに電話がかかってきた。通話ボタンをタップすると、陸の少し高い声が耳に飛び込んできた。
「よかった! 心配してたよ」
「大丈夫、打ち身だけだよ。それより、首位なんだな」
「軽いもんだよ。調整がうまくいって、今は体切れているし」
「まあ、若いからな」
「えー、翔平君、僕も28歳だよ、たぶん、一番ベテラン。32歳になった翔平君を除いて」
「そっか、引退から4年も経ったしな」
翔平は感慨を込めて言った。
「時間はしっかりと流れているのであります」
陸はおどけて言った。
「あ、宇良君は試合出たんだよな。どうだった?」
翔平は話題を変えた。
「かわいそうなくらいひどかったよ。ショートでふるい落とされた」
「厳しいな」
翔平は言葉を継げなかった。
「人のことを心配してる場合じゃないでしょ?」
「まあ、そうだけど」
「でも、彼はもしかすると、いい滑りができるようになるかも。センスは悪くない」
陸は渋々といった具合に言った。
「やっぱりわかる? ジャンプに自信がないから、今はすべてがばらばらになってしまっているけど、スケーティングそのものの基礎はよくできている。かなり滑り込んでいて、音を聴いてカウントが取れている珍しいタイプだし、練り込めば世界観を作れるよ」
「えー、なんかほめすぎ。ちょっと見ただけでしょ? 翔平君は僕だけをほめてくれたらいいんだよ」
陸は嫉妬心丸出しで言った。
「フィギュアを始めた人には、一人も嫌いになってほしくないんだよ。せっかく、こんなすばらしいスポーツに巡り合えて。お金や時間も相当にかけてきたはずだから。"大会前に自分と衝突してスケートをやめる"なんて、あり得ない」
「そうだね」
陸もその心情は承知している様子だった。
「数年後に、チャンピオンを争う選手になっているかもしれない。何とかしてあげたいんだよ」
「翔平君の気持ちは共感できる。でも結局さ、選手は自分で変わるしかないから。周りが何を言ったって難しい。かわいそうだけど、自分から変わるパワーがある選手だけが残っている世界だよ。人にひっぱたかれて、がみがみ教えられて、それだけで世界チャンピオンになった人はいないから」
「そうかもな」
「そうだよ。チャンピオンになる選手は、とにかくスケートが好きだし、そのパーソナリティがめっちゃ強い。翔平君だって、そうでしょ?」
「でも、ほら、自分の言葉がきっかけになることはあるだろ? ライバル同士にはなるわけだけど、お互い、そういう関係から刺激を受けてさ、どんどんスケートがうまくなることってあるし」
「宇良君と翔平君じゃ、ちょっとレベル違うけどね」
陸は承服できない様子だった。
「同じ舞台に立った者同士だよ。それに、フィギュアが好き、って選んでくれたのはうれしいじゃん。その気持ちが...」
「もう、そういう翔平君の優しいところ好きだよ。すき焼きパーティーしようね!」
陸は吹っきるように明るい声で言った。
「フリーも頑張れよ」
翔平はエールを送る。
「うん、じゃね!」
切るときもあっさりだ。それも陸らしい。どこまでが本気かわからないが、正直さは伝わってきた。
陸は憎めないし、可愛げがある。それは彼が生意気であっても、ひたむきな姿勢を貫いているからだろう。土台にあるのはスケートへの真っ直ぐな気持ちで、そこを行動規範にしている。本人はそんなことを意識していないだろうが、人間性は勝手に滲み出るのだ。
陸のスケーティングはとても自然で、楽曲をそのまま体現できる。彼自身の個性のフィルターは通しているが、そこにざらつきがない。無垢なほどにありのままを表現できるのだ。
自分に似たタイプのスケーターなのだろう。
「着きましたよ」
後部座席、横に座っていた鈴木四郎コーチが支払いを済ませながら言った。通話を終えてから、居眠りしかけていたらしい。いろいろあって疲労が出たのか。
「ありがとうございました」
タクシー運転手に礼を言いながら、車を降りた。ホテルの玄関から入って、受付を過ぎたところ、ロビーのソファに座っていた宇良が立ち上がって、直立不動になるのが見えた。
「あっ、宇良君」
「お帰りなさい、というか、本当にすみませんでした!」
ロビーに響く高い声で言った。
「まず、座って」
翔平は荷物を置いて、向かい合うようにソファに座った。四郎コーチには「あとで部屋に連絡します」と伝え、先に部屋に戻ってもらうことにした。
「診断はどうでしたか?」
宇良は心配そうに訊いてきた。
「大丈夫だよ、打ち身だけ」
翔平が言うと、宇良は少しだけ安堵した表情になった。
「ばあちゃんに、電話でものすごく怒られました」
「ん?」
翔平は要領を得ず、先を促した。
「あ、ばあちゃん、翔平さんの大ファンで。今回も楽しみにしていたから、孫の演技はそっちのけで、『ショーちゃんのサインをもらって』って頼まれたんです。さっきは『もう、帰ってくんな』って冗談なのか、本気なのか、わかんないですけど怒っていました」
「それは、なんていうか、うれしいような、困っちゃうような......」
翔平はおかしくなって笑った。
「自分が全部悪いんです」
宇良は再びしょげ返ってしまった。
「いや、本当に大丈夫だから。あとで大会パンフレットにでもサインするよ」
「本当ですか? ばあちゃん、たぶん、それで許してくれます」
宇良は少しだけ笑みを洩らした。
「自分のことを、そんなに好きだと思ってくれている人がいるのはうれしいよ」
「もともと、自分がフィギュアを始めたのは、ばあちゃんの影響で。ばあちゃんは長野の人なんですが、生まれは岡山で、翔平さんは年下のアイドルみたいな感じで。自分は父の仕事で日本中を転々としたんですが、子どもの頃は岡山に住んでいたので、翔平さんがオリンピックで優勝してアイスショーで凱旋した時は自分も小学生2年生で会場にいて」
「え、そうなの? 会ったことあったんだ!」
「はい、僕が勝手に会った気分になっていただけですが......」
「あの会場にいたんだね、エキシビで使っていたヒップホップの『白鳥の湖』を演じたんだっけ? そしてオリンピックでも滑っていた『道』をアンコールで滑ったんだ」
「ハイ、でも、その時も僕はおっちょこちょいなところが出て。緊張からトイレに行った後、道に迷って戻れなくなっちゃって、ばあちゃんや他の家族と離れ離れに。こっそり、リンクサイドに近い席にポツンと座っていたんです。でも、翔平さんの番が来て、どうにか家族のところに戻ろうとして、リンクサイドでまごついて。このままだと背伸びして見えるか見えないか、もう一度階段を上がって、と思ったんですが、もう暗転していたんで。係の人が『今だけだよ』って脚立を貸してくれて......」
宇良は捲し立てるように振り返った。
「優しい人で良かったね」
「はい、おかげで間近で翔平さんを観ることができました。こんな風に滑りたいって思って、すぐに親に頼んで。スケート教室に通って、本格的にやらせてもらうようになりました。自分はおとなしいというか、言いたいことをうまく伝えられないところがあるんですが、その時は親も剣幕に驚いて、促されるように許したそうです」
「自分の演技が、本気になるきっかけになったとしたら、それはうれしいな」
「翔平さんがずっと憧れです!だから緊張しすぎて、最低の結果になってしまって......」
宇良はそう言ってうなだれた。
「もう、いいって。本当に気にしていないから。宇良君は氷を押せていたし、ストロークの幅も大きかった。深いエッジを意識しているのも伝わってきた。スピードを落とさずにターンし、足を換えてターンし、次の足につなげて、しっかり乗れていた。何より会場にかかる曲のカウントを取って、音を拾っていたでしょ?あれは、なかなかできないよ」
翔平は褒めた。
「ありがとうございます。うれしいです、めちゃくちゃ。ただ、自分はジャンプに自信がなくって、不安になっちゃうんです。氷の上を滑るのは楽しいんですけど。なんで、こんなに跳べないんだろうって自分が嫌になります」
「練習は積んでいるんでしょ?」
「たぶん、誰よりも転んでいます」
宇良は真剣な顔つきで言った。それがおかしみもあって、翔平は一つだけアドバイスをすることにした。
「宇良君、ジャンプはね、成長曲線が人によって違うんだよ。スピンやステップは、少しずつ感覚がつかめる。手応えもあるだろう。やればやるほど、緩やかに上昇し続ける。でも、ジャンプはずっと低い位置をはって進むような線が続いて、やってらんない、ともなる。ただ、そこで続けていると、ある日、急にずどんと線が上がる。だから、辛抱強くやれているんなら、いつかきっと一気に上向きになる。それに、失敗を繰り返したほうが、ジャンプ技術は定着するんだ」
翔平はそう励ました。嘘ではなかった。例えばトリプルアクセルを習得したのは周りの選手よりも遅かったが、時間をかけてじっくり身につけたことで、技として定着していた。いきなり習得してしまうよりも、実はその方が確実で、急がば回れ、なのだ。
日本刀も同じだろう。「折れず曲がらず」を基調に、硬い鉄とするために炭素量を調節し、不純物を取り除く「折り返し鍛錬」で地鉄を木目のような模様にする。さらに硬度を増すため、焼きを入れることで刃文が表れる。そうすることで、最高の刃物となるのだ。
問題は、その鍛錬を続けられるか。
「翔平さんにそう言ってもらえて、元気が湧いてきました。できるようになるまで、ジャンプを跳び続けます」
「うん、跳べる時には跳べるし、跳べない時には跳べない。緊張したってしょうがないよ。緊張しなくたって、緊張したって、跳べない時には跳べないから。結果は後からついてくる。跳べなかったとしても、跳ぼうとした自分は悪くない。失敗の連続は、いつか懐かしい記憶になるさ」
「深いです」
宇良は神妙に答えた。
「また、大会で会おう」
「自分は長野で登録しているので。大それたことかもしれないですけど、全日本まで勝ち上がって、一緒に滑りたいです」
「大それたことではないよ。関東、東日本のブロックから勝ち上がってくるのを楽しみに。僕も頑張るよ」
「はい!」
宇良はこの日一番、快活に答えた。立ち上がって、エレベーターに向かおうとすると、「すみません」と呼び止められた。
「あの、サインをもらっていいですか? ばあちゃんに......あと、こっちのダイアリーには自分にも」
「ちゃっかりしてるじゃん。忘れてなかったね」
翔平は約束を思い出して感心し、笑いがこぼれた。祖母に許しを乞うには、サインが欠かせないのかもしれない。念には念を入れて、スマホのカメラでツーショットを撮った。