鳥山明さんの代表作の一つ「ドラゴンボール」が生まれた1984年以降、台湾の子どもたちも競うように漫画を読み、アニメ放送をビデオで見ていた(写真・Artur Debat/寄稿者、Getty Images)

鳥山明さんの訃報が伝えられた2024年3月8日。情報は数分もしないうちにSNSを介して世界中に伝わり、多くの台湾人が哀悼の意を表明する状況になった。

奇しくも前日の7日、台湾では株価が最高値を更新し、明るい雰囲気に包まれていた。とはいえ、鳥山さんの訃報で台湾の人々が悲しみに打ちひしがれているだけなのかと言えばそうではない。むしろ鳥山さんへの感謝と、過去を懐かしむような状況にあるのだ。

「ドラゴンボール」と言論の自由

2020年、コロナ禍で亡くなった志村けんさんの時も、蔡英文総統をはじめ多くの台湾の人たちが悲しみと生前の活躍を振り返っていたが、当時の状況に似ていると言えば理解しやすいかもしれない。

それもそのはず、台湾の中高年が鳥山さんの死に哀悼を示す裏には、台湾の民主化と社会の成熟、そして彼らの成長過程と大きく関係しているためだ。それがなおさら、鳥山さんの死去という事実を、台湾の人にアピールするのだ。

世界的ヒットとなった「ドラゴンボール」が『週刊少年ジャンプ』で連載が始まったのは1984年。台湾では経済成長で、人々の暮らしぶりが目に見えて良くなった時期に当たる。しかし、政治面ではまだ戒厳令が敷かれており、当局は海外からの情報の侵入に目を光らせていた。

当時、台湾に入国する際、税関で書籍や雑誌を没収された日本人は少なくない。没収されたのは、文化的差異から公序良俗に違反してしまったケースも当然あるし、当局にとって不都合な情報が掲載されているケースもあった。

また、日本の教育課程に則り、国内の教科書を空輸して使用する日本人学校では、年度末に学校が教科書を一括回収して処分。情報流出に気をつかっていたと言う。

そのような情報統制下の環境で、台湾の人々の民主化への希求は、経済成長とともに一段と強まっていく。

この時期、台湾の民主化の歴史に欠かせない1人の言論人がいる。台湾の民主活動家でもあり、「100%の言論自由」「私は台湾独立を主張する」との発言が歴史に残る、鄭南榕(1947〜1987年)さんである。

自由に意見を言えない時代にあって、『自由時代』など政治雑誌を創刊し、言論や表現の自由、政治の民主化、そして台湾独立を主張し続けた。

戒厳令と検閲に抗した1人の言論人

1987年、政府が戒厳令を解除しても、中国国民党(国民党)の一党独裁体制による自由思想の締め付けが続いていることを批判。それにより1989年1月、当局の強硬逮捕に抵抗して籠城を始めるが4月7日、自分の体に火を付け焼身自殺した。

この時、強行突入に踏み切った警官隊を指揮したのが、2024年1月の総統選で国民党公認候補として出馬した侯友宜・新北市長だ。この事件は、侯市長が今でも民主進歩党(民進党)や人権派人士から非難される理由の一つになっている。

普通のマンションの一室だった当時の出版社の事件現場は、現在、鄭南榕紀念館となっている。火災跡の状態を残し、民主化の聖地として人々に受け継がれている。また、建物の前の通りは「自由巷(通り)」と名付けられ、命日は「言論の自由の日」に定められた。

このころ、台湾のエンタテイメントの世界でも当局による検閲が行われ、当局による「ろ過」を経た、遅れたコンテンツが人々の間で伝わっていた。しかし、これを劇的に変えたのがVHS、ベータビデオなどのAV機器であり、街中に出現したレンタルビデオショップや漫画ショップだった。

そして、この流れに乗って台湾の家庭にまで浸透していったのが、志村さんの番組であり、鳥山さんの『ドラゴンボール』に代表される日本のソフトコンテンツだった。

それまでリアルタイムの日本に直接触れる機会が少なかった世代が、ビデオや漫画を経由して、一気に接することができるようになった。

大人の世界では、前述の鄭南榕さんのような民主化に刻まれた劇的な事件が起きるなど、民主化への躍動と希求が募っていたのに対し、子どもの世界では日本のエンタテイメントやコンテンツが爆発的に広がった時期と言えるだろう。

日本の漫画雑誌を競うように読んでいた台湾

日本のコンテンツに対する人々のニーズはすさまじく、ビジネスとしても急成長する。まだ著作権への遵法意識が低かったことに加え、国交がないことで国際間の取り決めが十分に浸透しない時代だった。

そのような抜け道やグレーゾーンが多かった状況を逆手に、多数の漫画やアニメが翻訳出版されることになったのだった。

その中には、今ではとても考えられないことだが、『週刊少年ジャンプ』『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』、それに『週刊少年チャンピオン』を1冊にまとめた漫画雑誌までも発売されたことがある。

発行スピードは驚異的で、日本でオリジナルが発売されるとただちに台湾に持ち込まれ、すぐに翻訳しながら印刷される。

いつの頃か、日本から正規に空輸された『週刊ジャンプ』よりも速く読めてしまうので、現地在住の日本人子女も台湾版を購読し、日本国内の流行をキャッチアップしていたという。インターネットがない時代において、日台間の情報伝達のタイムラグを最小限に食い止めていたのだった。

その中で『ドラゴンボール』は大陸中国的な教育が強化された戦後の台湾で、しかも「悟空」と言っても古典の西遊記の孫悟空しかイメージできなかった1980、1990年代の台湾人の子どもが思い付きさえもしない世界観と、洗練、かつ特徴的な日本漫画らしいデザインで台湾の人たちを魅了した。

21世紀に入ると欧米でもドラゴンボールブームのような現象が起きるが、台湾では一足先に、ブームよりも一歩踏み込んだ人生観に影響を与えるようなインパクトが発生したのだった。

現在の台湾の中高年らはこのような環境下で育ったのである。

日本統治時代を経験したことがない当時の台湾の当時の子どもたちは、かつて「日本人」だったことがある祖父母と、世代の垣根を取り払い、一緒に日本文化に慣れ親しむことができた。

世代の垣根を取り払った日本の漫画

そしてそれが、日本への親しみと憧れともいえる「親日さ」を生み出す状況を作りだした。また、当局による締め付けがまだ厳しい時代だったからこそ、日本のコンテンツがより浸透したと言えるかもしれない。

ちなみに、鳥山さんはファミコンの大人気ソフト「ドラゴンクエスト」のキャラクターデザインも担当したのは有名だ。

ファミコンは台湾でも爆発的に流行した。ソフトは主に言語を必要としないアドベンチャーゲームやシューティングゲームが人気だったが、日本語力が必要なロールプレイングゲームの「ドラゴンクエスト」でも遊んだという台湾人は、現在でも少なくない。

彼らは日本語を理解できないが、周囲の日本語のわかる人に聞いたり、コマンドを暗記したり、何とかして理解しようと努めてゲームを楽しんだ。

この体験をきっかけに、後年、本格的に日本語の世界に飛び込んだと言う猛者もおり、ファミコンや「ドラゴンクエスト」が果たした役割は想像以上だと言えるだろう。

訃報が伝えられてからまだ数日も経過していないが、SNS上には依然として多くの台湾人が鳥山さんと作品を懐かしむ投稿が続いている。

日本人と同じように台湾人も、同じ時代に鳥山さんの作品を楽しみ、影響を受け、今日に続く友好関係を作り上げたのだった。

鳥山明さんと台湾人の絆の強さを、改めて思わずにはいられない。

(高橋 正成 : ジャーナリスト)