粗末な板塀に白い花がひとつ、笑うように咲いている(写真:yasu /PIXTA)

輝く皇子は、数多くの恋と波瀾に満ちた運命に動かされてゆく。

紫式部によって書かれた54帖から成る世界最古の長篇小説『源氏物語』。光源氏が女たちとさまざまな恋愛を繰り広げる物語であると同時に、生と死、無常観など、人生や社会の深淵が描かれている。

この日本文学最大の傑作が、恋愛小説の名手・角田光代氏の完全新訳で蘇った。河出文庫『源氏物語 1 』から第4帖「夕顔(ゆうがお)」を全10回でお送りする。

17歳になった光源氏は、才色兼備の年上女性​・六条御息所のもとにお忍びで通っている。その道すがら、ふと目にした夕顔咲き乱れる粗末な家と、そこに暮らす謎めいた女。この出会いがやがて悲しい別れを引き起こし……。

「夕顔」を最初から読む:不憫な運命の花「夕顔」が導いた光君の新たな恋路

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夕顔 人の思いが人を殺(あや)める

だれとも知らぬまま、不思議なほどに愛しすぎたため、
ほかの方の思いが取り憑いたのかもしれません。

女はどこのだれであるのか

それはそうと、あの惟光(これみつ)がまた報告にやってきた。頼まれていたのぞき見の件を、じつにくわしく調べてきたようである。

「西の家の女主人がどこのだれであるのか、まったくわからないのです。ずいぶんと慎重に、人目を忍んで隠れているようですよ。若い女房たちは退屈なのか、大通りに車の音がしますと、母屋の邸(やしき)から、例の半蔀(はじとみ)のある長屋に揃(そろ)ってやってきては、おもてをのぞいて見ているのですね。そんな時に、この女主人もいっしょに見にくることもあるみたいです。ちらりと見ただけですが、顔立ちはじつにかわいらしい。先日、先払いの者が声をかけながら、牛車(ぎっしゃ)を走らせていったんですが、それを見ていた童女(わらわめ)が、『右近(うこん)の君、早くごらんなさいませ、頭中将(とうのちゅうじょう)殿がお通りになられますよ』と言っているのです。すると中から、様子のいい女房が『しっ、静かに』と手で制しつつ、『どうして中将さまとわかったの。どれ、私も見てみよう』と言いながら出てきたのですよ。ところが、母屋から長屋に渡してある、打橋(うちはし)のような板を急いで渡ろうとしたものだから、着物の裾を引っかけて、よろよろと倒れて打橋から落ちそうになってしまったのです。『まあ、葛城(かずらき)の神さまったら、危なっかしく橋を架けてくれたものだわね』なんてぶつくさ言いながら、のぞき見る気もなくしたようです。それにしても、醜いことを気にして、昼は働かず夜しか働かない葛城の神が中途半端に架けた岩橋の伝説が、そんなふうにぱっと口をつくのですからたいしたものです。しかもこの童女が、『お車の中の中将殿は、御直衣(おのうし)姿で、御随身(みずいじん)たちもおりました。だれとだれがおりましたよ』なんて、証拠を挙げるみたいに、頭中将の随身や小舎人童(こどねりわらわ)たちを数え上げるのですよ」

それを聞いて光君は、

「それはその車を見届けたかったものだな」と言い、雨夜の品定めを思い出す。あの時頭中将は、行方不明になった忘れがたい女がいると話していたが、西の家の女主人はその女ではないだろうか、などと思うのである。そうするとますます女のことを知りたくてたまらなくなる。そんな光君の様子を見て、惟光は続ける。

「その西の家の女房を、私自身もうまく口説いておりまして、家の様子もすっかりわかってきたんですが、女房のひとりと見せかけて、ほかの女房たちとまるで仲間うちみたいに親しく話している若い女がいるのです。うまく隠しおおせているつもりのようですが、ときどきちいさな童(わらわ)なんかが、うっかりご主人さまに話しかけるようにていねいな言葉遣いをしてしまうのですが、それをなんとか取り繕って、ご主人さまなんていないかのようにごまかしているんですなあ」と、惟光は笑った。

「また尼君のお見舞いにいく時にでも、私にものぞかせておくれよ」と光君は言う。

熱に浮かされたように女の元に

仮住まいだろうけれども、ああいう家こそが、雨夜の品定めの時に頭中将が軽んじていた下(しも)の家々なのだろう。けれどその中に意外にもすばらしい女が隠れているかもしれないと、光君は期待せずにはいられないのだった。

惟光は、光君の言いつけならばどんな些細(ささい)なことも背くまいと思ってはいるが、もともと、自分自身もしたたかな好き者なので、あれこれ熱心に立ちまわって、ようやく光君が通う段取りにこぎつけたのである。

このあたりのことは、くだくだしくなるのでいつもの通り省くことにします。

この女がどこのだれともわからないままなので、光君は自分も素性を明かさず、この女の元に通うようになった。ひどく粗末な身なりで、いつもとは違って熱に浮かされたように女の元に通い詰める。これはずいぶんなご執心だと思った惟光は、自分の馬を光君に譲り、

「こんなみすぼらしい姿で歩いているのを、あの家の者たちに見られてしまったら、なんともつらいものですな」とこぼしながら、徒歩でお供した。

このことをだれにも知られたくない光君は、以前、夕顔の取り次ぎをした随身と、先方に顔を知られていないはずの童をひとりだけ連れて、女の元に行くのだった。万が一にも感づかれてはいけないからと、隣の乳母(めのと)の家に立ち寄ることもしない。

女もさすがに不思議に思い、光君からの使いの跡をつけさせたり、夜明けに君が帰る時の道筋をさぐらせたり、住まいを突き止めようとするが、光君はいつもうまく彼らを撒(ま)いていた。そのくせ、逢わずにはいられないほど相手の女に惹(ひ)かれていた。こんな粗末ななりでお供もつけずに通うとは、貴人としてあるまじきことと苦しく思いながらも、気持ちとは裏腹に光君の足は女の元へ向かうのである。

恋をすれば、真面目な男でも我を失うこともある。光君は、そんなふうにみっともない失態だけは演じまいとずっと自重し、今まで世間から非難されるような振る舞いをしたことはなかった。それが今度は奇妙なことに、今別れてきたばかりの朝でも、日が暮れればすぐ逢える昼でも、女に逢いたくて気が気ではなく、苦しいほど女のことを考えてしまう。なんとももの狂おしく、こんなに夢中になるほどの恋ではないと気持ちを静めようとしてみる。女は、なんとも言えず素直でおおらかではあるが、思慮深いわけでもなくしっかりしているわけでもない。まったく初々しい少女のようでいて、しかし男女のことを知らないわけではない。それほど身分の高い姫君というわけでもない。この女のいったいどこにこれほど惹かれてしまうのかと、光君はくり返し考える。


「夕顔」の人物系図

ふつうの恋とは違う悩みに取り憑かれ

光君は従者が着るような粗末な狩衣(かりぎぬ)を着て、顔も隠して、夜が更けて人が寝静まるのを待ってから出入りしている。まるで昔話によく出てくる化けものじみていて、女は気味が悪くなるが、しかし、暗闇の中で触れると、その手触りで、男が並の男ではないことがはっきりとわかるのである。

いったいどこのどなたさまなのかしら、やっぱりあの浮気男があれこれ手引きをしたに違いないわ、と惟光を疑うが、惟光はしらを切り、とんでもないとでも言いたそうに、自分の恋に夢中になっているふうなので、どういうことなのか女にはさっぱりわからない。そんなわけで女は、ふつうの恋とはまったく違う悩みに取り憑(つ)かれ、男のことを思うのだった。

心を預けてくれたように見えるこの女が、あるときふいに行方をくらましてしまったらどうしよう、と光君は考える。どこをさがしていいものやら、見当もつくまい。今の住まいはどう見ても仮の宿としか思えない、だからいつどこへ移ってしまうか予想することもできない。追いかけようとして見失ってしまい、それきりあきらめがつくのならば、その程度の気まぐれな恋として忘れられようが、そんなふうに終えられるようには思えない。

人目を気にして女の元に行くことのできない夜は、辛抱できず、恋しくて苦しくすらなってくる。もういっそ、素性もわからないまま女をこの二条院に迎えてしまおう、と光君は決意する。世間に知られれば非難もされようが、こうなるめぐり合わせなのだ、こんなにも女に心を奪われたことなど今までなかったのに、自分たちにはいったいどんな深い宿縁があるのだろうと思わずにはいられない。

「どこか、人の目を気にしないでいいようなところに行って、ゆっくりお話ししたいものだね」

光君はそんなふうに女を誘ってみた。

なんとかわいらしい人なんだろう


「でも、やっぱり心配です。そんなふうにおっしゃいますけれど、ふつうとは思えないお扱いですもの。私はなんだかおそろしいような気持ちです」

女はそんな子どもっぽいことを言い、それもそうだと光君はつい笑う。

「そう、私たちのどちらが狐(きつね)なのかな。ただ黙って私に化かされていてくれませんか」

とやさしく言うと、女はすっかりその気になって、それでもいいと思っているような様子である。どんな妙なことでも、黙って聞き入れようとするその心がいとしく、なんとかわいらしい人なんだろうと光君は思う。そう思ったとたんに、やはりこの女は、頭中将が話していた常夏(とこなつ)の女ではあるまいかと疑念も抱く。しかしそうだったにしても、秘密にしているのは何かわけがあるからだろうと、光君は女にとりたてて訊き出そうとはしなかった。

今のところ、拗(す)ねて行方をくらますような女には思えないけれど、もしかしてしばらく訪ねずに放っておいたら、そんなことにもなるのかもしれない。こんなにも一途に思いこんでしまう恋よりも、ちょっと飽きて夜離(よが)れをしたくらいのほうが、この女のひたむきさをもっと感じられて、恋は深まるかもしれない……、などと、光君はそんなことまで考える。

次の話を読む:綱渡りな「明け方の恋の道」に募る、その女の不安


*小見出しなどはWeb掲載のために加えたものです

(角田 光代 : 小説家)