「N響事件」の直後、1962年12月の小澤氏

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訃報に際しファンが抱いた違和感

“世界のオザワ”と呼ばれた指揮者、小澤征爾が2月6日に亡くなった。享年88。「東洋人には西洋のクラシック音楽はできない」といわれた時代、単身、その「西洋」に乗り込んでいった。いま、海外で「日本人に西洋クラシックは無理」なんていったら一笑に付されるだろう。それは、“開拓者”小澤征爾のおかげなのである。

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「訃報が流れたのは2月9日の夕方過ぎでした。さっそくその夜の『NHKニュースウオッチ9』は、トップで、しかもかなりの時間を費やして報じていました。しかし……」

 と語るのは、あるベテラン音楽ジャーナリスト。何やら気になることがあったという。

「N響事件」の直後、1962年12月の小澤氏

「1962年の、通称“N響事件”に、まったく触れていなかったのです。もう古い話ですし、NHKとしてはお膝下で起きた騒動ですから、扱いにくかったのかもしれません。しかし、小澤さんの人生を語るうえで、また、戦後の国内クラシック音楽界を語るうえでも、この事件を避けて通ることはできません」

 N響事件とは、NHK交響楽団が、自ら招聘した小澤をボイコットし、演奏会が中止になった騒動だ。一般には、海外で成功した小澤の態度に、N響が拒否反応を示した――といった構図で語られてきた。

「しかし、実態はそう単純な話ではありません。そもそも、この騒動がなければ、小澤さんは、“世界のオザワ”にはなれなかったかもしれないのです」

 いったい、N響事件とは、どういう騒動だったのだろうか。詳しく振り返ってみよう。

海外で先に成功してしまったために

「そもそも小澤さんは、最初、日本ではなく海外で成功してしまった人でした。いまでこそ、海外コンクールで入賞し、日本に“逆輸入”されるアーティストは珍しくありませんが、当時は考えられないケースでした」

 と、先の音楽ジャーナリストが語る。

「その道のりは、彼の青春回想記『ボクの音楽武者修行』(1962年4月、音楽之友社刊/現・新潮文庫)に生き生きと描かれています。1980年に文庫化されて以来、いまでも読まれつづけているロングセラーです。桐朋学園短期大学(現・桐朋学園大学音楽学部)を卒業後、1959年に〈外国の音楽をやるためには、その音楽の生まれた土、そこに住んでいる人間を、じかに知りたい〉と、単身ヨーロッパにわたり、日本にもどるところまでが描かれています」

 ヨーロッパでは、持ち前の好奇心と行動力が大爆発。ブザンソン国際指揮者コンクールで1位。カラヤン指揮者コンクールでも1位となり、“帝王”カラヤンに師事する。その後アメリカにわたってバークシャー音楽祭(現・タングルウッド音楽祭)でクーセヴィツキー賞を受賞し、指揮者のシャルル・ミュンシュに師事。さらには、ニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者に就任、バーンスタインに師事する。これらの快挙を、25〜26歳の若者が、わずか2年ほどで成し遂げたのである。

「そんな若者にNHK交響楽団が目を付けたのは当然でした。客演指揮者として、1962年6月から半年間の契約を結びました。実は、この契約が、いまから思えば重すぎたのです。なにしろ、年末の《第九》まで、ほとんどすべての公演を、まだ26歳の青年ひとりにまかせたのですから。その間、国内ツアーや東南アジア・ツアーまでありました」

 出だしは順調だった。7月4日、オリヴィエ・メシアンの大作《トゥランガリラ交響曲》日本初演を指揮し、大成功させた。

「フランスから作曲者メシアン本人が来日し、終演後、ともに舞台上で拍手を浴びる若き小澤さんは、まさに新時代を告げるヒーローでした。ところが、次第にN響との関係が、ギクシャクしはじめます」

 これについては、後年、小澤自身が「私の履歴書」(日本経済新聞2014年1月連載)で、回想している。フィリピンにおけるベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番で、こんなことがあった。

〈現地のピアニストが弾くカデンツァの途中で、僕はうっかり指揮棒を上げてしまった。オーケストラが楽器を構えた。だがカデンツァはまだ続いている。僕のミスだった。終演後、先輩の楽員さんに「おまえやめてくれよ、みっともないから」とクソミソに言われて「申し訳ありません」と平謝りするしかなかった。/僕には全然経験が足りなかった。ブラームスもチャイコフスキーも交響曲を指揮するのは初めて。必死に勉強したけど、練習でぎごちないこともあっただろう。オーケストラには気の毒だった〉

 実は、コンクール歴こそ華々しかったが、まだ本番ステージの経験は乏しかったのだ。

「そもそもN響はドイツ系で、旧・東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)卒業生が多いオーケストラでした。そこへ、創設間もない桐朋学園の卒業生でフランス経由アメリカ帰り、しかも、当時はまだあまり知られていなかったブザンソンのコンクールで優勝したとかいう若者がやってきたのですから、古参の団員にとっては、面白くなかったでしょう。小澤さんにも、遅刻やミスが多かったようですが、なにしろものすごい公演数の契約でしたから、ちょっと気の毒な面もありました」

 後年、ドキュメンタリー映画「OZAWA」(メイズルス・ブラザーズ監督、1985)のなかで本人が、珍しくN響事件について述べている。

「僕は何から何までアメリカ流で、あけっぴろげだった。日本のやり方を、まったくわかっていなかった。出る杭は打たれるんだ」

 そして事態は、さらに混迷の一途をたどる。

定期演奏会が中止に

 11月になってN響側が「今後、小澤氏には協力しない」と表明する。曲目が変更され、リハーサルも減らされた。小澤はN響に対し「曲目変更はN響の責任であり、契約内容を保証せよ」などと要求する「覚書」を提出する。

「これが決定的な決別を招きました。ついに12月の定期演奏会が中止となったのです。病気や芸術面が原因ならわかりますが、“ケンカ”で定期が中止になるとは、前代未聞の椿事です」

 小澤は、このときの怒りを、「週刊新潮」の「週間日記」欄で、こう記している(1962年12月31日号)。

〈ボクは絶対にひけない。聴取料でささえられ、演奏を一般に提供するという義務をもっているはずのNHK及びN響事務当局が、こんなことで逆上し、一方的に演奏会を中止するとは。/午後七時、帝国ホテルのロビーに記者の方々に集まってもらい、ボクは事件のイキサツと自分の考えを発表した〉

 その会見で、「NHKとN響を名誉棄損、契約不履行で訴える」との過激な内容が発表された。事態は完全に泥沼化した。

「定期演奏会は中止になりましたが、それでも小澤さんは、予定通り東京文化会館へひとりで行くのです。上記『週間日記』でも〈ボクはどうしても会場へ行き、つとめを果たしたい〉と書いています。しかし当然、誰も来ていません。〈ステージ上でボクの靴音だけがヤケに響く〉。ところが、ここへなぜかマスコミが来ていたのです。団員がひとりもいないステージ上で、ポツンと立っている小澤さんの写真が新聞雑誌に載りました。その光景は、いかにも大組織NHKにいじめられ、ひとりで耐えている若者の姿でした。この写真のおかげで、世間は一斉に、小澤さんに同情的になるのです」

 実は、この写真は、一種の“演出”だった。

「このころ、小澤さんを守ろうという、若手文化人たちが集結していたのです。『小澤征爾の音楽を聞く会』なる、いわば自主公演組織が立ち上がっていました。発起人の中心は、作曲家・一柳慧と、詩人・谷川俊太郎。そのほか、作家・石原慎太郎や三島由紀夫、演出家・浅利慶太などもいました。先述の写真は、浅利慶太のアイデアだといわれています。騒動は、『国営放送NHK』vs.『若手文化人グループ』の構図に変貌し、拡大したのです」

 つまり、この事件を深掘りすることは、NHKとしては体裁がよくない……だから、今回のニュースでも触れなかったのか?

もう日本に戻るつもりはなかった

 その後、中止となったN響定期公演にかわって、翌1963年1月15日、日比谷公会堂で「小澤征爾の音楽を聞く会」が開催される。オーケストラは分裂以前の日本フィルハーモニー交響楽団。開会挨拶は、小澤の仲人で、作家の井上靖がつとめた(小澤は、この年の1月、ピアニストの江戸京子と結婚したばかりだった。4年後に離婚するが、彼女も、この1月23日に86歳で没したばかりだった)。

 この公演を聴いた三島由紀夫は、感動のあまり、翌日、かなりの長文〈熱狂にこたえる道 小澤征爾の音楽会をきいて〉を、朝日新聞に寄稿している(1963年1月16日付)。15日夜公演のレビューを、翌16日朝刊に載せたのだから、すごい勢いである。三島は、こう書いている。

〈最近、外来演奏家にもなれっこになり、ぜいたくになった聴衆が、こんなにも熱狂し、こんなにも興奮と感激のあらしをまきおこした音楽会はなかった。(略)当夜の喝采は、大げさにいうと、国民的喝采であった。小沢氏は汗と涙でくちゃくちゃの顔を、舞台裏で何度もタオルでぬぐい、また拍手にこたえて出て行った。(略)私は友人として、涙と汗にまみれた彼の顔を見ながら、/「そら、ごらん、小沢征爾も日本人だ」/と思い、意を強うした〉

 結局、このあと、小澤とN響は、文芸評論家・中島健蔵、音楽評論家・吉田秀和、作曲家・黛敏郎の仲介で和解する。そして1月18日午前10時、羽田発の日航機で、アメリカへ“帰って”いくのである。

 このときの心境を、小澤は〈もう日本に戻るつもりはなかった〉と記している(私の履歴書)。半年間、日本のクラシック界を襲った台風が去っていったようだった。

「この騒動がなければ、小澤さんは、日本で安泰の指揮者生活をおくり、“世界のオザワ”にはなれなかったでしょう。というのも、このあと、小澤さんは、北米で素晴らしい仕事を次々と成し遂げるのです」

 シカゴ交響楽団を振り、さらにトロント交響楽団指揮者、サンフランシスコ交響楽団音楽監督に就任する。

 先の音楽ジャーナリストは、この時期の小澤征爾が大好きだという。

「日本は自分を見限ったとの思いがあるのか、ふっきれた、若々しい演奏ばかりです。そもそも、海外のメジャー・オーケストラのLPジャケットに、堂々と顔が載る日本人なんて、このとき初めて見ました。特に、サンフランシスコ交響楽団の《パリのアメリカ人》のジャケットは、まるで当時のヒッピー風ファッション。アメリカでは、こんな服で指揮しているのかと驚いたものです。トロント交響楽団の《幻想交響曲》ジャケットは、まるで少年のような静謐な表情ですが、演奏はものすごい熱気。そのギャップにも感動しました」

 その後、小澤は1973年にボストン交響楽団音楽監督に就任し、2002年までつとめることになる。ウイーン・フィル・ニュー・イヤー・コンサートへも登壇、ウィーン国立歌劇場音楽監督もつとめ、いわば世界クラシック界の頂点に立った。しかし、その原点はN響事件だったともいえるのだ。

恩師からのお願い

「N響事件は、多くの文化人やマスコミが、様々な見方で論評しています。そのなかで、もっとも正鵠を射ているように思うのが、小澤さんの恩師で、当時、桐朋女子学園校長だった生江義男さんの論考です」(音楽ジャーナリスト)

 生江義男(1917〜1991)は、通信簿や入学筆記試験を廃止し、のちに桐朋学園理事長をつとめる名物教師だ。山口瞳の小説『けっぱり先生』のモデルでもある。

 その生江校長が、事件の最中に〈小沢君の音楽を聞いて下さい 一教師のねがい〉と題した文を、朝日新聞に寄稿している(1962年12月25日付)。

 1952年、桐朋女子高校に「男女共学」の音楽科が創設された。

〈それまでの女子だけの学園に、男の子がはいってくるということは、PTAの間に、大きな波紋をまきおこした。そうした最中に、小沢君は、おかあさんに連れられて受験にやってきた〉

 生江校長は、面接で、女子高に初めて男子が入ることの大変さを説明した。すると、〈彼は、おかあさんをかえりみながら、舌をペロリとだしてうなずいた〉という。

〈それからの音楽科は、ある意味で彼を中心に動いたといっても過言ではない。しかし、よくいたずらもした。遅刻もまた常習だった。たのまれれば、いやとはいえない彼の性格は、よく友だちのことまでひきうけては問題になった。/注意されると、ニッコリ笑って、手を頭にあげて恐縮する。が、信念を貫くときの彼の行動は、いかにも自信満々としている〉

 遅刻の常習、頼まれればいやとはいえない、そして自信満々な高校生……生江校長は〈いま、NHK、N響に対しての、彼の言動も、学生のころと少しも変わりはない〉として、こう綴るのだ。

〈どうして、N響の先輩の人びとが、愛情のこもった苦言や、指導をしてくれなかったのだろうか。おそらく、彼は、ニッコリと笑って、手を頭にあげて恐縮したかも知れない。(略)若き天才としての小沢と同時に、人間的にも、芸術的にも未完成な(それだけに無限の未来が予約されるのだが)小沢の両面を、わけてとりあげたところに、今度の問題が胚胎していたのではないだろうか〉

「N響事件の本質は、これに尽きると思いました。まだ世の中を知らないような青年を招いた以上、N響は、その責任を負うべきだったのです。オーケストラは教育機関ではないといわれればそれまでですが、だったら、呼ぶべきではありませんでした。ある意味、このときの小澤さんは、未熟な日本クラシック界の犠牲者だったのではないでしょうか。このあと、小澤さんがN響を指揮するのは1995年1月。実に32年後のこととなります」

 生江校長は、一文の最後を、こう結んでいる。

〈日本での新しいプラスを小沢君に背負わせて、もう一度、彼を、世界の舞台にたちもどらせてほしい。私の願いはこれにつきる〉

 残念ながら生江校長の願いは成就しなかった。「もう一度たちもどる」どころか、世界最高の指揮者となってしまったのだから。(文中敬称略)

富樫鉄火(とがし・てっか)
昭和の香り漂う音楽ライター。吹奏楽、クラシックなどのほか、本、舞台、映画などエンタメ全般を執筆。東京佼成ウインドオーケストラ、シエナ・ウインド・オーケストラなどの解説も手がける。