人を愛し、街を愛し、酒を愛した(2009年)

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「ホッピーは演歌が似合う酒」――至言ではないでしょうか。数々のヒット演歌を送り出してきた作曲家の船村徹さん(1932〜2017)。朝日新聞の編集委員・小泉信一さんが様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。今回、取り上げる船村さんは出会いから感慨深いものだったそうです。ヒットの裏にあった思いとは何だったのか、じっくりとお楽しみください。

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稚内の塩ラーメンが大好物

 新聞記者になって36年。さまざまな人物を取材してきたが、この人との出会いも感慨深いものがあった。市井に生きる人々の喜怒哀楽に寄り添い、土や海のにおいが濃厚に漂う歌を送り出した作曲家・船村徹さんである。

人を愛し、街を愛し、酒を愛した(2009年)

 村田英雄(1929〜2002)の「王将」(1961年)、北島三郎(87)の「風雪ながれ旅」(80年)、鳥羽一郎(71)の「兄弟船」(82年)、細川たかし(73)の「矢切の渡し」(83年)、美空ひばり(1937〜1989)の「みだれ髪」(87)……。手がけた作品は5500曲を超す。涙や故郷、男の心意気などを音で描く一方、女の情念あふれるしっとりとした曲や、春風のように軽やかな歌も作った。

 その船村さんに初めて会った場所が北海道稚内市というから、何やら運命的なものを感じないわけにはいかない。稚内? どこにあるのか分からない人は、日本地図で確認してほしい。日本列島最北の港町である。

 飛行機が嫌いな船村さんは、陸路で稚内を訪ねることが多かった。鉄道なら札幌からJRの函館本線と宗谷本線を乗り継いでひたすら北へ。北海道中央部に位置する旭川を過ぎたあたりから次第に人影のない駅が続く。亜寒帯の冷涼とした空気の中に入っていく感じと言っていいだろう。

「遠いロシアの荒野へでも迷ってしまったような感覚さえ覚えます。それがいいんです」

 と船村さん。札幌から稚内までは約400キロ もある。

 車なら新潟からフェリーに乗るパターンが多かった。小樽に着き、石狩湾を左手に臨 みながら「日本海オロロンライン」と呼ばれる海岸沿いの国道を北へ北へと目指すのが「船村流」旅のスタイル。もちろん、車はお弟子さんが運転していた。

 稚内に入ると日本海に浮かぶ利尻富士の悠然とした姿が楽しめる。初夏、海岸線を埋め尽くすハマナス。潮風に揺れるエゾリンドウの紫の花。「稚内に来ると創作欲がわいてくる」と船村さんは語っていた。

 最北の原野の雄大な情景をテーマにした「サロベツ原野」(2006年)という作品もある。愛弟子・鳥羽一郎さんが歌っている。そういえば、日本海を臨む砂丘林にあるレストハウスの塩ラーメンが船村さんのお気に入りだった。私も食べてみたが、澄みきったスープが何とも優しく、具材はチャーシューとメンマなどシンプルだった。

「人生に泣き、酒に笑い、音楽の心を知る」

 話を戻す。そんな北の街に私は2006年から2007年まで朝日新聞稚内支局長として赴任していた。

 06年5月下旬。東京から稚内に赴任して、まだ数えるほどしか日数が経っていなかった。「今夜、船村徹さんが市内の居酒屋を訪ねるそうだよ」。市役所の幹部からそんな話を耳にした。実はその数年前、電話取材だったが、船村さんにホッピーにまつわる思い出話をうかがったことがある。

 麦芽とホップで作った炭酸飲料。アルコール度数は0・8%。これを安い焼酎と割って飲む。栃木の片田舎から上京し、音楽学校に入学した当時の船村さんは貧しかった。新宿でバンドのアルバイトをしながら生計を立てたというが、そのころ安い酒に交じって飲んだのがホッピーだった。

「ホッピーは演歌が似合う酒。寂れた縄のれんの店が似合う庶民の酒です」

 と船村さん。路地裏の酒場でホッピーを飲んでいると、演歌のメロディーが心に浮かぶようになったそうである。

 その船村さんが稚内の酒場にいるという話を聞いた私は、ご挨拶を兼ねて店を訪ねた。

「朝日新聞の小泉です。ホッピーの取材では大変お世話になりました」

 船村さんはそのときのことをよく覚えており、「あのときはありがとう。今夜は一緒に飲みませんか」ということに。お言葉に甘えて末席に加えさせていただいたが、この日の船村さんは相当機嫌が良かったらしい。ちびり、ちびり、日本酒を傾けながら、「人生に泣き、酒に笑い、音楽の心を知る。そんな人生でしたね」。遠くを見つめるようにして静かに自らの演歌人生を語り始めた。外は冷たい風が吹いていた。

 そして07年春。船村さんが作曲した「宗谷岬」(72年)について書くため、私は東京の事務所を訪ねた。そこで船村さんがなぜ稚内をそんなに頻繁に訪ねるようになったのか、経緯をうかがったのである。

 船村さんが夜汽車に乗って初めて稚内を訪れたのは1965年、昭和40年だった。ギターを抱え、オホーツクの咆哮を聞きながら、稚内の街をさまよった。夜は漁師たちとコップ酒だ。

「血液までも凍るような寒さ。でも、人々はたくましかった。怪物のような冬と向き合う姿に希望の光を見つけた思いがした」

 と船村さんは語った。1955年に春日八郎(1924〜1991)の「別れの一本杉」、61年に村田英雄の「王将」と大ヒットを飛ばし、当時すでに日本の演歌界では不動の地位を築いていた。だが78年、レコード会社との専属契約をやめフリーになった。「演歌巡礼」と称し、土地土地の風に身をさらす旅に出た。

 不安はあったに違いない。何が彼をそこまでさせたのだろう。

 栃木出身の船村さんは、茨城出身の作詞家で26歳の若さで亡くなった親友・高野公男さん(1930〜1956)の言葉がひっかかっていた。

「お前は栃木弁の心で歌を作れ。俺は茨城弁の心で詞を書く」

 世の中は東京一極集中になだれをうっていた。音楽づくりの現場も例外ではない。しかし、様々な人たちの営み、その息づかいを知らずに、人の心をとらえる歌が生み出せるのかと船村さんは自身に疑問を突きつけた。

「演歌巡礼」と名づけた旅では、ギター片手に温泉場や場末のキャバレーも回った。後に船村さんは著書「演歌巡礼――苦悩と挫折の半生記」(1983年、講談社)の中でこう書いている。

《人と触れ合い、人の情けを知るのが旅だと私は信じている。袖すり合うも他生の縁というが、袖をすり合わせるのも旅だし、縁とは、座して待つものではないだろう》

ヒットしなかった曲を供養する

 蝶ネクタイをして居住まいを正した音楽家のように振る舞わないのも、船村さんの矜持だった。「先生、こんなことまでしないでください」。旅先でファンから泣きつかれたこともあったというが、「演歌は日本固有の風土から生まれた民衆のうめき」が持論だけに、地方巡業はやめなかった。

 栃木県船生(ふにゅう)村(現・塩谷町)生まれ。ペンネーム「船村」に望郷の念がこもる。「徹」は音楽に徹する思いに由来する。

 ここで船村さんの兄について少し触れておきたい。12歳上の兄は陸軍士官学校出身。戦地に赴く直前、ハーモニカで「ドリゴのセレナーデ」を吹いてもらった。指揮官として乗り込んだ輸送船でニューギニアへ向かう途中、ミンダナオ付近で戦死した。その兄の無念の思いを胸に、船村さんは音楽を学んだのである。

 それにしても、最初のヒット曲となった「別れの一本杉」(春日八郎)は1955年の作品である。戦争の傷痕も薄れ、復興へ向けて東京が元気だった時代。ビルや工場が続々と建つ大都市に、仕事を求めて地方から多くの人たちが集まってきた。「別れの一本杉」は、田舎から東京に出てきた男が、故郷に残した恋人をしのぶ歌である。「東京よ、このままでいいのか」「地方を切り捨てていいのか」と船村さん自身が抱いていた問題意識が垣間見える作品と言ってもいいだろう。

 振り返ると「やはり船村さんは船村さんだなあ」と思ったことの一つに「歌供養」があった。六十数年の作曲家人生で手がけた作品は5500曲を超えるが、ヒットすることなく忘れられてしまった歌もある。そんな歌への感謝の思いを込めて、毎年、営んでいた式典が「歌供養」だった。祭壇に譜面やレコード、CDなどを備え、僧侶が経を唱えた。

「こっち側に残っている人間が供養しないと、あの子たちも浮かばれないと思うんです」

 いつだったか、船村さんは私にこう言っていた。

 2016年11月。作曲家としては山田耕筰(1886〜1965)以来、60年ぶり2人目となる文化勲章を受章した。記者会見で「この勲章は(亡くなった)先輩方の“忘れ物”。私はそれを拾って、あちら側にお届けする役」と謙遜した。市井に生きる人たちに寄り添い、生涯現役を貫いた船村さんらしい言葉だった。

 この会見の3カ月後。船村さんは静かに旅立った。84歳。もっともっと話をうかがいたかった。「生まれ変わったときも弟子であり続けたい」と北島三郎さん。「生涯、おやじと一緒に歌っていきます」と鳥羽一郎さん。船村演歌を愛弟子たちが歌い続ける。

 次回は江戸情緒が残る東京の玉の井や深川を描いた作家・永井荷風(1879〜1959)。1959年4月、79歳で亡くなる前日も、自宅近くの食堂で銚子1本を注文し、濃厚な味を堪能した。放縦な暮らしぶりながら老いても最期まで自分らしさを貫いた荷風。憧れの先達の最期に迫る。

小泉信一
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部