「壇ノ浦の合戦」の翌年、西行が源頼朝に見せた「塩対応」とは 【左】《富士見西行》(部分) 礒田湖龍斎筆(東京国立博物館所蔵)、【右】《伝源頼朝像(模本)》(部分) 冷泉為恭模(東京国立博物館所蔵)

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 平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した天才歌人・西行(1118〜1190)。何事にも執着しない恬淡な人柄だったとされるが、じつは大の「源氏嫌い」であったという。

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 西行歌集研究の第一人者である寺澤行忠さんの新刊『西行 歌と旅と人生』(新潮選書)には、西行が「平家好き」「源氏嫌い」になる経緯が詳しく書かれているが、ここでは「壇ノ浦の合戦」の翌年、西行が源頼朝に見せた「塩対応」のエピソードを再編集して紹介しよう。

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 やがて西行は鎌倉に差しかかる。鎌倉で源頼朝に会っていることが、『吾妻鏡』文治2年(1186)8月15日の条に記されている。

「壇ノ浦の合戦」の翌年、西行が源頼朝に見せた「塩対応」とは 【左】《富士見西行》(部分) 礒田湖龍斎筆(東京国立博物館所蔵)、【右】《伝源頼朝像(模本)》(部分) 冷泉為恭模(東京国立博物館所蔵)

 頼朝が鶴岡八幡宮に参詣していた時に、鳥居のあたりを老僧が一人で歩き回っていた。これを怪しんで梶原源太景季に名前を尋ねさせたところ、西行だということがわかった。和歌の話をしたいから、心静かに面会したい旨申し入れる。西行も承知したので、頼朝は参詣ののち、西行を連れて早々に帰り、営中(将軍の居所)に招き入れて会談した。

 頼朝は西行に、歌道ならびに弓馬のことにつき、いろいろと尋ねた。それに対し西行は、弓馬のことは、先祖より伝えてきた兵法の書もあったけれども、出家遁世した折に、皆焼いてしまった。
 
「罪業の因たるによって、その事かつて心底に残し留めず、皆忘却しをはんぬ」――兵法などというものは、罪業の因であるから、皆忘れてしまった。

「願はくは花の下にて春死なむ」――どうすれば西行のように清々しく生きられるのか。出家の背景、秀歌の創作秘話、漂泊の旅の意味、桜への熱愛、無常を乗り越えた「道」の思想、定家との意外な関係、芭蕉への影響……偉才の知られざる素顔に迫る。西行一筋60年、西行歌集研究の第一人者がその魅力を語り尽くす決定版 『西行 歌と旅と人生』

「詠歌は、花月に対して動感するの折節、わづかに三十一文字を作るばかりなり。全く奥旨(おうし)を知らず」――そういうわけで、いずれもお話するようなことはありません。
 
 そのようにはじめはけんもほろろに答えていたが、頼朝は引き下がらない。なおもねんごろに尋ねるので、それではと、話しだした。弓馬のことについては、詳細に話した。頼朝は藤原俊兼に命じて、西行のことばを筆録させた。西行の話は終夜に及んだ。

 翌日の正午に西行は退出した。頼朝はしきりに引きとめたけれども、それを振り切るように退出した。頼朝は銀で作った猫を贈物として西行に与えた。西行はこれをいったん受け取ったけれども、門前で遊んでいた子供に与えてしまった。

 武家世界の覇者である頼朝が、一出家僧の西行に、兵法と和歌についてしきりに教えを乞うている。また西行にとって、頼朝などにはたいして関心がなかったらしいことが窺われる興味深い資料である。

 もっともこの時期になると、西行の歌人としての盛名は関東に聞こえていたであろうし、また西行の側からすると、荘園をめぐる争いを通して、源氏に冷ややかな感情を抱いていたということもあった。

 銀の猫を子供に与えたということも、西行の無欲ぶりを語るものではあるが、しかし実際、銀製の重い猫などを持って旅を続けるのは、かえって迷惑なことでもあったろう。

※本記事は、寺澤行忠『西行 歌と旅と人生』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。

デイリー新潮編集部