1階部分がつぶれた則貞さんの自宅(撮影・吉川 譲)

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「妻と二人で『ニューイヤー駅伝』の感想を…」

 1995年以降の地震としては、すでに東日本大震災、阪神・淡路大震災に次ぐ直接死の数を記録している能登半島地震。その被害の全貌は未だ見えず、最も甚大な被害を受けた震源地では、何もかもが崩れ去り、そこには絶望だけが残されていた――。

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 1月1日の発生から7日が経過した8日時点で石川県内の死者数がもっとも多いのが70人の輪島市、そして珠洲市である。能登半島の先端に位置し、今回の地震の震源地でもある珠洲(すず)市。その中でも外浦(そとうら)、つまり日本海外洋に面したところに大谷(おおたに)地区はある。その小さな集落には、古い木造家屋のほとんどが全壊したり、土砂崩れに巻き込まれている、まさに絶望的な光景が広がっていた。則貞武夫さん(82)の家も、1階部分がひしゃげた無残な姿をさらしている。

1階部分がつぶれた則貞さんの自宅(撮影・吉川 譲)

「地震が起こる前は妻と二人で『ニューイヤー駅伝』の感想を言いあい、のんびり過ごしていた」

 と、則貞さんが語る。

「市内の飯田町にいる息子の奥さんの誕生日が2日でね。毎年2日にみんなで帰省してきて、お祝いをする。今年も息子夫婦と孫2人、金沢の娘夫婦と孫2人、全部で8人が来る予定だった。冷蔵庫にはオードブルや刺身が用意してあって、あとはみんなが着くのを待つだけだった」

 最初の地震の揺れが襲ったのはそんな時だった。

「俺だけ立ち上がって庭の様子を見ようと玄関に向かった時に、さらに強い揺れが起こった」

 1日午後4時6分ごろと10分ごろに起こった2回の地震の震源はいずれも珠洲市内。1回目の地震の最大震度は5強(M5.7)、2回目は7(M7.6)だった。

「もうダメやな」

「とっさに立って玄関横の柱につかまったけれど、その柱が円を描くようにグラグラ揺れていた。俺は建築の仕事をしていたから、ああ、これはもたないとすぐに分かった。もうダメやな、と。その瞬間、1階が潰れた」

 妻のあき子さん(80)は1階の居間の辺りにいたと思われるが、

「妻の方を見たり助けたりする暇もない。俺のところにも廊下の天井が落ちてきて、1畳もないスペースに閉じ込められた。押しつぶされそうになりながらも、前から迫ってくる壁を両足で押さえて、何とか空間を作った。もう死ぬかと思った。揺れが収まってから外に這い出ると、家の1階部分は完全に潰れていて、天井の上に出てきたような感じだった」

 何としてでもあき子さんを助け出さなければ――。則貞さんはそれだけを考えていた。

「2階の屋根の上に登って、建築の仕事で使っていた丸ノコやチェーンソーを使って妻を助けようとした。でも家がぐちゃぐちゃに潰れていて、とてもじゃないけどダメだった。居間の辺りまで入っていけない。親の代までは旅館だった。先祖代々の古い建物で、それなりに大きい。消防隊の分隊が声かけもしてくれたけど、返事がなかった」

「遺体は公民館に安置」

 地震の2日後、現場で捜索活動にあたる自衛隊に、妻がいたと思われる場所を伝えた。

「崩れた家の2階部分に穴を開けて下に掘り進めてくれて、午後2時半ごろに見つかったと連絡を受けた」

 それからさらに2日が過ぎた5日の時点でも、

「遺体は公民館に安置してある。早いこと火葬に連れて行ってもらわにゃ。でも検視する人もまだ来とらんみたい。携帯もつながらないから、子供たちともなかなか連絡が取れんしな」

 あき子さんは子供や孫たちが来るのを心待ちにしていたという。

「俺が23、向こうが21の時に結婚して……こんなふうになるとは思わなかった。孫は就職したり、大学院に行ったり。そんな進路の話を聞くのをずいぶん楽しみにしていた。妻は和太鼓が趣味で、地域のお祭りでもよくたたいて周りを楽しませていた。かわいそうなことになった。今も家に帰れる時は帰って、妻の遺品を掘り起こしている。アルバムとか、妻が保育士をしていた時の服とか……」

 1月10日発売の「週刊新潮」では、“生と死”の境目に立たされた人たちの肉声や、南海トラフ地震との関係性など、能登半島地震を8ページにわたって詳しく報じる。

「週刊新潮」2024年1月18日号 掲載